敦賀港は敗戦による対岸貿易の途絶により大打撃をうけたが、一九五一年(昭和二六)には重要港湾に指定され、また運輸省による旧笙ノ川河口水面を利用した船溜整備工事も五四年三月完了して、徐々にその機能を回復した。
五五年一〇月、小樽・敦賀・舞鶴間の定期航路が開設され、また五六年の日ソ国交回復をうけて翌年五月には戦後初のソ連貨物船クイビシェフ号が入港し、五八年六月にはナホトカ定期航路の寄航地に指定されるなど、対ソ貿易が本格化して北洋材などの輸入も増加した。このため、六三年には金ケ崎一万トン岸壁の完成とともに、港湾整備計画が策定され、あらたに川崎、松栄地区の外貿用岸壁や臨港道路の建設がなされ、六八年には港大橋も完成した。また六九年のフェリーボートの敦賀港寄航決定により、翌七〇年には川崎、松栄A岸壁(フェリー岸壁、延長一三〇メートルで七三年に六九メートル延長)が完成し、八月には小樽・敦賀間に新日本海フェリーの「すずらん丸」が就航した。さらに、七二年にはソ連向け繊維製品の積出しがはじまり、七六年ソ連のワニノ港との定期貨物船の配船、八〇年からの中国との交易再開、九〇年の韓国釜山との間の定期コンテナ船の就航など対岸貿易も進展した。 |