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 第五章 転換期の福井県
   第二節 県民生活の変容
    一 交通網の整備
      高速道路と空港
 一九五七年(昭和三二)の「国土開発縦貫自動車道建設法」により中央自動車道などの建設計画が進められ、六一年、北陸四県と滋賀県は北陸縦貫高速自動車道建設促進同盟会を結成して中央に働きかけた結果、新潟市を起点として名神高速道に接続する北陸自動車道が同法に追加された。その後、六四年四月には予定路線の決定がなされたが、この時点では福井・大津間は未定であり、福井県は、今庄から滋賀県木之本町に直接抜ける最短コースに対して、敦賀市をとおる湖西ルートを主張していた。その後、六六年七月に富山・武生間の、六七年一一月には武生・米原間の整備計画が決定されるなかで、敦賀市をとおって湖東の米原で名神高速道に接続する現コースが確定した。七二年一〇月金沢西・小松間が最初に開通したのに続いて、七三年一〇月には小松・丸岡間、七五年一〇月丸岡・福井間、七六年一一月福井・武生間、七七年一二月武生・敦賀間(今庄・敦賀間は二車線暫定供用)、八〇年四月敦賀・米原間と順次開通して名神高速道と接続し、同年六月には、今庄・敦賀間が四車線開通した。福井県以北についても同年末には富山県滑川まで開通しており、翌年一月の五六豪雪には北陸への物資輸送に威力を発揮することとなった(日本道路公団金沢管理局『北陸自動車道20周年記念誌』)。
写真92 福井空港

写真92 福井空港

 福井空港は六一年に運輸省の「一県一空港」方針に沿って計画され、六四年五月着工、六六年七月総敷地約二七万平方キロメートル、総工費四億五〇〇〇万円(半額県費)、一二〇〇メートルの滑走路をもつプロペラ機用空港として坂井郡春江町に開港した。開港と同時に全日空のフレンドシップ(四〇人のり)が福井・東京間に就航、七二年四月からは大型のYS11(六四人のり)が就航した。当初の利用率は六〇%から七〇%あったが、七二年の八六%をピークに減少し、とくに七三年秋の第一次石油危機以降激減した。七四年一二月には羽田空港の過密化などを理由に名古屋乗継ぎ便となるなどダイヤも不便となり、しだいに利用客も減少して、七六年三月末、全日空は乗入れを中止し事実上廃港となった。このとき県と全日空との間で、石川県の小松空港と福井の間に連絡バスを運行すること、新東京国際空港の開港により羽田空港が利用できるようになった時点で、東京・福井直航便の復活に努力することなどが話し合われたが、すでに地方空港もジェット化の時代を迎えており、滑走路の拡張が空港再開の絶対条件となっている。



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