一九五七年(昭和三二)の「国土開発縦貫自動車道建設法」により中央自動車道などの建設計画が進められ、六一年、北陸四県と滋賀県は北陸縦貫高速自動車道建設促進同盟会を結成して中央に働きかけた結果、新潟市を起点として名神高速道に接続する北陸自動車道が同法に追加された。その後、六四年四月には予定路線の決定がなされたが、この時点では福井・大津間は未定であり、福井県は、今庄から滋賀県木之本町に直接抜ける最短コースに対して、敦賀市をとおる湖西ルートを主張していた。その後、六六年七月に富山・武生間の、六七年一一月には武生・米原間の整備計画が決定されるなかで、敦賀市をとおって湖東の米原で名神高速道に接続する現コースが確定した。七二年一〇月金沢西・小松間が最初に開通したのに続いて、七三年一〇月には小松・丸岡間、七五年一〇月丸岡・福井間、七六年一一月福井・武生間、七七年一二月武生・敦賀間(今庄・敦賀間は二車線暫定供用)、八〇年四月敦賀・米原間と順次開通して名神高速道と接続し、同年六月には、今庄・敦賀間が四車線開通した。福井県以北についても同年末には富山県滑川まで開通しており、翌年一月の五六豪雪には北陸への物資輸送に威力を発揮することとなった(日本道路公団金沢管理局『北陸自動車道20周年記念誌』)。
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