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 第五章 転換期の福井県
   第二節 県民生活の変容
    一 交通網の整備
      国鉄各線の再編
 北陸トンネルの建設により、一九六二年(昭和三七)六月に敦賀・福井間が電化された時点では、県内の北陸線の複線区間は敦賀・湯尾間と福井・森田間、丸岡・金津間のみであった。その後、石川県境の新熊坂隧道が六三年七月に、衣掛山隧道のループ線が同年一〇月に、滋賀県境の新深坂隧道が六六年九月にと次々に完成し、それぞれの区間の複線化が進められた。石川県以北の北陸線も、六三年四月の福井・金沢間、六四年一〇月の金沢・富山間と電化が進められるのに並行して複線化工事も進められており、六六年九月には富山までの複線化が完成した。なお、米原・直江津間全線の複線電化が完成したのは六九年一〇月であった(金沢鉄道管理局『北陸線のあゆみ』)。
 六四年度以来、国鉄財政は赤字を続け、しかもその額は年々増加した。このため、金沢鉄道管理局管内でも、六九年から地元の反対を押し切って「営業近代化計画」を進め、七一年三月には、北陸線の県内六駅を無人化するなどの、また七三年三月には小浜線であらたに三駅を加えて一〇駅を無人化するなどの「合理化」を行い、さらに赤字ローカル線の整理として、七二年二月、三国線を廃止した。三国線は四四年一〇月戦争協力のため全線閉鎖、鉄材供出のため三国港・芦原間のレールが撤去されたが、戦後は四六年八月から芦原・金津間で旅客輸送を中心に運行が再開された。しかし周辺の道路が整備されるにつれて、経営が悪化し、営業係数三二五(七〇年)にのぼる赤字線になっていた。このため六八年秋の国鉄赤字線整理諮問委員会の廃止勧告八三線の一つにリストアップされ、おりからの北陸線「合理化」計画のなかで、金津駅を拠点駅化して芦原温泉駅とし、代替バスを運行することを条件に廃止された。
 これよりさき、六二年六月、北陸トンネルの新線開通により、杉津経由の敦賀・今庄間の旧線が廃止され、また、六三年九月、北陸線敦賀・疋田間の複線化にともない柳ケ瀬線の同区間が当分休止ののち、六四年五月には同線敦賀・木之本間が廃止された。
写真91 越美北線勝原・朝日間の開通

写真91 越美北線勝原・朝日間の開通

 しかし、赤字ローカル線の撤去が叫ばれるなか、公共的期待に応えなければならないという理由から、あらたに建設される線もあり、越美北線もその一つであった。越美北線は国土横断鉄道の一部で、構想はすでに一九二二年(大正一一)に具体化され、岐阜県側の北濃までの越美南線七二・二キロメートルは三四年(昭和九)八月完成していた。福井県側の工事もこれに応じて三五年には着工し、三九年九月には福井・大野間の路床が完成したが、戦争のため工事は中断した。五六年ようやく工事が再開され、六〇年一二月に福井・勝原間四四・九キロメートルが開通した。その後も地元を中心に工事延長の要望が強く、とくに「三八豪雪」には和泉村が孤立したこともあって、六五年一一月和泉村朝日までの一〇・一キロメートルの工事が着手され七二年一二月に勝原・朝日(九頭竜湖駅)間が開通した。延長区間の八三%が隧道で、「五六豪雪」時には、列車は止ったものの、この隧道が徒歩で利用され、唯一和泉村民を孤立から救う結果となった。
 七四年七月、琵琶湖の西側をとおり敦賀・大津間を結ぶ湖西線が完成した。七五年三月より「雷鳥」などの特急が走り、米原経由より約二〇キロメートル短縮されて大阪・福井間が二〇〇キロメートルを割り、また時間にして一五分以上の短縮となった。



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