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 第五章 転換期の福井県
   第二節 県民生活の変容
    一 交通網の整備
      電車・バス事業
 道路の改良が進むにつれて、県内でも自動車とくに自家用車が飛躍的に増加して、電車、バス事業に大きな影響をあたえ、県内の電車乗車人数は一九六四年(昭和三九)をピークに急激に減少した。同様に、バス利用人数も、当初は道路の改良などにより順調に増加したが、六四年以降増加率が鈍化、七一年をピークに過疎地の赤字路線の整理などにより、急激に減少した(図54)。
図54 電車パス利用者と自動車の普及 

図54 電車パス利用者と自動車の普及 

 福井鉄道には福武線(福井市田原町・武生市武生新間)と鯖浦線(鯖江・織田間)、南越線(武生市社武生・鯖江市戸ノ口間)があり、三路線の輸送人員は六四年が最高で年間約一二七六万人であったが以後減り続け、七一年度には八四七万人と激減した。このため会社再建の「合理化案」として南越線と鯖浦線の廃線、バス代替化が打ち出された。まず七一年九月、南越線の戸ノ口・粟田部間が廃線となり、鯖浦線は七二年一〇月に織田・西田中間が、七三年九月に西田中・水落間が廃止となった。八一年三月には南越線の残りの部分も廃線となり、それぞれバス路線化された。
 同様に、京福電鉄のうち、四三年の開通以来赤字の続いていた丸岡線(西長田・本丸岡間)が六八年七月、六五年以降赤字の増加していた永平寺線(永平寺・金津間)の東古市・金津間が六九年九月、越前本線(福井・大野間)の勝山・大野間が七四年八月それぞれ廃線となり、バス路線となった。
 乗合自動車(バス)事業は、戦時中の統制により三社に統合されていたが、京福電鉄では、四八年末には福井・大野間などの路線の運行を開始した。また、福井鉄道も四八年八月、福井県中部乗合自動車を合併して、事業を再開し、五三年八月には敦賀乗合を、さらに六一年九月には三方交通を合併して、武生を中心とする嶺北地方の南部と嶺南地方にバス路線網を拡大した。京福電鉄も、五九年に大野交通自動車を、六一年には県下最大の福井県乗合自動車と勝山交通を、また六三年には丸岡自動車をそれぞれ買収して系列化し、同年八月にはそのうちの福井県乗合自動車を合併して、福井市を中心とするバス路線(市内バス路線を含む)を統合した。
 しかし、六〇年代後半からの自家用車の急激な普及は、県内のバス事業に大きな影響をあたえた。バスと乗用車の輸送人員を比較すると、六七年まではバス利用が上回っていたものの、以降バス利用率は漸減し、七四年度ではバス利用率が二六・九%となり、この比率は全国平均四一%をはるかに下回り、全国最低となった(『北陸中日新聞』76・6・10)。このように自家用車を中心とする旅客輸送構造はその後も変わらず、九四年には、公共交通(鉄道・バス)七・四%、タクシー二・九%に対して自家用車八八・四%と現在なおその傾向を強めている(『福井陸運支局管内概況』)。
 この傾向は、山間部を中心とする過疎地域のバス路線に深刻な影響をあたえたことから、七〇年代後半に入って国、県などの補助金交付額が増加し(表123)、たとえば、八五年では県内三六〇系統のうち一二七系統が生活路線として補助対象路線に認定されており、これらの路線は国や地方自治体の交付金により、かろうじて維持されることになった(第六章第一節五)(『福井陸運支局管内概況』)。

表123 地方バス補助金交付額(1973〜85年)

表123 地方バス補助金交付額(1973〜85年)



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