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 第五章 転換期の福井県
   第二節 県民生活の変容
    一 交通網の整備
      主要道路の改良
 国道は、一九五二年(昭和二七)の第一次指定以来、数次の追加指定が行われた。これに応じて主要地方道も再編され、順に県下の道路網の再編が進むことになった。さらに国道への昇格は、改良などの国庫負担率を三分の二から四分の三に押し上げ、また、主要地方道への昇格は、整備目標年次や国道昇格順の繰上げにつながり、結果的にこれらの主要道路網の再編成が進むなかで、県内道路の改良、舗装が進展することになった。
 六四年、建設大臣の管理責任を強化して、重点的、効率的な整備を促進するため国道の一級二級の区分が廃止され、主要地方道に丸岡川西線や大野墨俣線など四線が追加指定された。六九年一二月、主要地方道の小浜今津線および同敦賀三国線を中心とする海岸道路が国道三〇三号、三〇五号にそれぞれ昇格し、これにつれて、七一年六月に、鯖江永平寺丸岡線、勝山永平寺線など六線が主要地方道に指定された。七四年一一月には国道三六四号(美山町から永平寺町、丸岡町竹田を経由して大内峠から石川県加賀市にいたる)、同三六五号(主要地方道武生木之本線が昇格、武生市を起点に今庄町、県境栃ノ木峠を経て滋賀県木之本にいたる)、同三六七号(県内部分は国道三〇三号と共用し滋賀県今津町から朽木村を経由して、京都市大原にいたる)が追加指定され、また同一五七号のうち同一五八号と共用していた部分が変更され、大野市から西谷村、温見峠を経て岐阜県に抜ける主要地方道大野墨俣線が同一五七号に昇格した。これにより、七六年四月には、鯖江藤橋線など四線が主要地方道に指定された。つづいて八二年四月、国道四一六号(主要地方道福井勝山線と同小松勝山線が昇格)、同四一七号(主要地方道鯖江藤橋線と同四ケ浦神明線などが昇格)が追加指定されたが、ともに県境の部分が未開通の路線で、国道昇格により早期開通を期待するものであった。これにより、大野勝山線など六線があらたに主要地方道に指定された。
 五三年道路整備費の財源に揮発油税をあてることになり、五四年度を初年度とする第一次道路整備五か年計画が発足、以降急激に道路の改良が進んだ。県下の道路は、五〇年に道路整備五か年計画を立てたものの、震水災などの復旧事業に予算が割かれたため、道路整備にまで手がまわらず、「日本一の悪道路」と呼ばれるほど、道路整備は遅れていた。五九年に就任した北栄造知事は「県政は道路なり」として道路改良を最重点政策にかかげ、県下の道路の改良舗装率はようやく上昇し、舗装率では六四年、改良率では七二年にそれぞれ全国平均を上回った。六四年に国道八号の、六七年に二七号の改良工事が完了したのをはじめ、国道、主要地方道などの幹線道路の改良に先導されるかたちで、県内道路の改修事業が進展した。とくに六五年以降の奥越電源開発事業に関連した国道一五七号の改良、海岸道路三〇五号の改良など国道の改良が進展し、六八年秋開催の福井国体にむけて、主要道路の改良事業が大きく進展した(図53)。以下、主要道路の改修の経過により、進捗状況の一端を示すことにする(国道八号は第四章第二節二)。
図53 道路の改良率と舗装率

図53 道路の改良率と舗装率

 敦賀市を起点に若狭地方を貫いて京都府舞鶴市に抜ける国道二七号は、戦前からおもに軍事的目的から改良が進められ、高浜町から県境吉坂峠を経て軍港舞鶴にいたる区間と、敦賀市から第一九連隊所在地金山にいたる道路の改良工事が行われ、戦後は建設省の手に引き継がれて、五〇年には吉坂隧道が完成し、また五一年には敦賀から関峠にいたる区間の改良が完了した。その他の区間の本格的な改良工事は、五八年建設省の第二次道路整備五か年計画により着工され、六七年六月にようやく全線の改良舗装工事が完了した。
 若狭地方から滋賀県今津町に抜ける国道三〇三号の改良工事は六三年から進められ、六五年本格的な工事にかかり六九年には上中町三宅から熊川まで、七〇年九月には県境までの全線の改良舗装が完成した。
 国道一六二号の堀越峠の改修工事は四六年からはじまり、五一年には峠が開鑿されて自動車の通行が可能になったが、なお急な道路でカーブも多く六四年から沿線各町村の陳情が重ねられ、七四年一〇月隧道が完成した。
 敦賀と関西を結ぶ旧西近江街道にあたる国道一六一号は、明治初年の鉄道開通によって衰退し、旧街道のままであった。国道八号の交通量が増加したことと、敦賀から京都への最短経路であることから、改修の要望が高まった。五七年から工事がはじまり六三年八月に完了し、自動車の交通が可能になった。つづいて舗装工事にかかり、六四年一二月全線舗装が完了した。
 石川県境の谷峠から勝山市、大野市、和泉村を経て、油坂峠で岐阜県に抜ける国道一五七号(一部一五八号と共用)は、六五年電源開発工事の資材運搬のため、ようやく改良に手がつけられ、六六年四月、和泉村川合・大谷間が、つづいて六七年一二月には、同村大谷・上半原間が改良された。九頭竜ダム完成の六八年には道路改良工事が、七三年春には舗装工事も一部をのぞいて完了した。なお、石川県境の谷隧道は四九年に開鑿されたものの、なお冬季間の通行は困難であったため、七一年一二月新隧道が完成し、つづいて勝山・石川県境間の新道建設が進められ、七九年一〇月完成した。
 嶺北地方の海岸を走る国道三〇五号は、雪も少なく、国道八号のバイパス機能が期待されて、戦前より構想されていた。しかし、断崖が海にせまるルートが大半で、船による連絡しかできない区間もあり、また帯状に連なる漁村内の道路は狭く、改良工事は困難をきわめた。四六年以降局部的な工事が続けられ、五九年には待望の敦賀・三国間がようやく開通した。さらに、六八年の越前加賀海岸国定公園の指定と、三里浜の福井新港計画により、観光、産業基幹道路としての期待が高まり、六九年には県の最重点事業として再改良工事が着工され、七〇年夏いちおうの完了をみた。なお改良工事の困難な越前町梅浦・玉川間には、六九年九月、県によって越前海岸有料道路が着工され、七一年四月供用が開始された。
写真90 越前海岸有料道路の開通

写真90 越前海岸有料道路の開通

 主要地方道福井加賀線(芦原街道)は、雪が多くまた改良工事の続いた国道八号のバイパスの機能を果たした。このため県外からの自動車の通行も多く、福井・芦原間は五三年よりコンクリート舗装工事が進んだ。六四年には国道八号の改良が完了したものの、福井市に流れ込む自動車の増加により渋滞が激しくなったため、福井・金津間に新しい県道嶺北縦貫道が着工され、七三年一二月完成した。
 国道八号は六四年改良工事が完成したが、すでに自動車の急激な増加に対応できず、とくに福井市周辺の朝夕の渋滞は激しいものになっていた。このため、金津町瓜生と武生市妙法寺間にバイパス建設が計画された。六四年建設省の直轄事業として調査が開始され、六六年に福井市丸山・大町間が着工され、六八年一〇月福井国体の輸送路として供用が開始された。つづいて七三年四月金津町瓜生・福井市大土呂間が供用開始され、七四年この区間が国道に昇格した。工事は投資効果を高めるため全幅四車線のうちまず二車線を先行して行われ、九三年三月の鯖江高架橋完成により、嶺北の大動脈三八キロメートルとして全線開通し、さらに九五年の世界体操鯖江大会を前に同年三月、福井・武生間が四車線化された。



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