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 第五章 転換期の福井県
   第一節 「夜明け前県政」と産業基盤整備
    三 奥越電源開発と原子力発電所の誘致
      補償問題の解決
 難航した奥越電源開発が電源開発調整審議会(会長は総理大臣)の承認を得て正式決定したのは一九六二年(昭和三七)一二月六日のことである(『読売新聞』62・12・7)。懸案の開発基地の県内設置も通産大臣の鶴の一声で確約された。翌六三年には水没地区の補償問題がおおむね解決をみる。電発は、旧戸との補償については和泉村の機関である電源開発対策協議会と水没地区住民でつくる水没同志会を正式の交渉団体として協議を進めたが、七月二一日、水没地区住民に対する個人補償単価を発表した。補償総額三四億五〇〇〇万円にのぼる提示で、御母衣ダムの補償と比較して平均三〇%以上の増額であった。これに対し、住民は当初難色を示したが、引き続く交渉で協力費名目で別途二億円の積上げという線が出されて急速に妥結にむかう。一一月一一日、補償基準と工事着手の承認につき電発と地元二団体間の調印が行われた(『福井新聞』63・7・22、11・13)。
 六四年九月に工事請負業者の入札が行われたが、結果的に最高値をつけた業者が落札したため問題視されることになった。地元では態度を硬化させ補償完了までは着工を認めないとしたし、この問題は国会でも取り上げられ、いろいろな推測が語られた(『毎日新聞』64・10・14、『読売新聞』65・2・10、『福井新聞』65・3・13)。結局は遅延につぐ遅延の連続であった奥越電源開発問題にさらに遅延を生んだというだけで事件としては決め手を欠き、「疑惑」止まりとなった。このことをモデルとして石川達三は小説『金環蝕』を著し、これは映画にもなった。
 奥地補償問題が解決したのは六五年二月二八日で、県議会電源開発特別委員会による、四億一四〇〇万円の移住費を残存地区八五戸の住民に対して支払うというあっせん案を電発側がのみ、妥結した。電発は総工費三五〇億円のうち九〇億円(二五〇〇万ドル)を世界銀行に対する借款により調達することにしていたが、補償交渉を解決しなければ知事より水利許可が得られず、それがなければ借款が発効しないというぎりぎりの段階となっていたので歩み寄ったのである(『福井新聞』65・3・1)。また、和泉村に対して学校、公民館などの村有財産や道路などの補償を行う公共補償交渉も四月二四日、総額四億九八〇〇万円で妥結した。四月二六日、ようやく電発は長野ダムおよび長野発電所の請負業者に対して着工命令を出した(『福井新聞』65・4・26、27)。
 計画案の変更により工事とは関係がなくなってしまった石徹白川上流の三面、小谷堂両地区住民への補償は困難な問題をはらんでいた。水没するわけでもなく、もとより奥地ではあるが巨大な人造湖の出現が原因で奥地に孤立するということでもないから、補償の対象とはなりにくい。しかし、石徹白川の水利権を確保するために石徹白村越県合併のさいに、県の説得を受け入れて分村して県内にとどまった地区であったといういきさつや、後野ダムの計画がかなり長期に渡って生き続けていたため、水没を予定して山林などの手入れを行っていなかったという事情もあった。結局は、両地区住民二三戸は、県から四一五〇万円の移住補償費を受け取り移住した。この補償費のうち、和泉村より三〇〇万円、電発より一五〇〇万円の負担を県は求め、了承された(『福井新聞』65・12・9)。
 水没地区や奥地残存地区の住民は補償金を得て村を離れたが、県内にとどまった人は少なく、その約半数は岐阜県に、三割が愛知県に移住した。雪の降らない太平洋側への憧憬、美濃側との歴史的社会的結びつき、当時の好況下の労働力不足から太平洋側の工業地帯は雇用機会に満ちあふれていたことなどが理由として考えられる(『奥越電源開発』)。
写真88 九頭竜ダム

写真88 九頭竜ダム

 本格的な工事は六五年五月に長野発電所関係工事の着工とともにはじまり、六七年一〇月二三日、長野ダムが完成した。一二月二日より湛水をはじめ、六八年五月下旬に満水位海抜五六〇メートル、三億二〇〇〇万トンに達した。長野発電所一号機の営業運転の開始は五月二五日であった(『奥越電源開発』)。計画中、工事中を通じて「長野ダム」と呼ばれた、奥越電源開発工事の中核を占めたロックフィル式ダムは、地元からの改称の要求を電発がいれて、六八年九月一八日、「九頭竜ダム」と改称された。



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