両社競願に決着がついたのは、一九六一年(昭和三六)六月二一日のことであった。通産省公益事業局は、両者の計画を折衷的に取り入れ、上流の長野ダムについては電発のロックフィル方式を採用し電発に開発させ、下流の発電所については北電に行わせるという調停案を自民党政務調査会北陸地方特別委員会に提示した。また、完成後の発電施設はすべて北電に管理させ、北電は電発に長野ダムの借入料を支払う、というものであった。電力界四長老(太田垣関西電力会長はじめ、北海道、東京、中部各電力会長)も同趣旨の勧告書を両社に示したので、これは一般に「長老裁定」と呼ばれている(『福井新聞』61・6・22)。
こうして両社共同工事が決定し、焦点は補償問題に移った。補償交渉が実際にはじまると、和泉村住民側と電発・北電側で補償額や補償対象をめぐって折り合わず、暗礁に乗り上げることになった。両社による計画案の詳細が詰められたのは六二年二月であった。同時に示された補償基準は御母衣の時と同じ単価で、五九年四月以降水没地に移住したいわゆる新戸には移転実費だけ、また、奥地残存地区には移転補償はしないというものであったため、和泉村側の反発を呼んだ。二月二六日に初の補償懇談会が開かれたが、和泉村側はこれに納得せず、翌日には全面拒否回答を行った。電発・北電側も態度を硬化させ、三月一二日には現地の共同本部を閉鎖し、現地調査、折衝を打ち切った。これに対して、和泉村側もふたたび一社開発案を蒸し返すなどして完全なデッドロックに陥ったのである。
状況の打開は奥越出身の衆議院議員福田一の通産大臣就任とともに訪れた。六二年七月一八日、福田が第二次改造池田内閣の通産大臣に決まったという報が入り、問題解決への期待は高まった。補償交渉の難航からデッドロックに陥ったとはいえ、両者とも解決のきっかけを求めていた側面もあった。北知事は八月になってにわかに積極的に動き出し、(1)電源開発による補償は公正妥当とする、(2)和泉村への補償は電発があたる、(3)奥地残存地区への対策については県の責任で国と起工者が協力して行う、といういわゆる三原則で県議会と和泉村の了承をとりつけ、国や北電・電発両社に対する働きかけを行った(『福井新聞』62・8・19)。地元の北電不信は抜きがたいので、長老裁定による両社開発方式は維持しつつも補償問題については北電を後景に退けて、積上げについての期待をもたせるというものである。これに対して福田通産大臣も同意の意向をもらし、二月段階で提示された補償額では不十分であるとの示唆も行った(『福井新聞』62・9・16)。これをうけて通産省では両社と協議しあらたな補償額の検討を行い、県の側でも知事の示した原則の線で交渉を知事に一任するという了解をとりつける作業が行われた。補償額の公表は行われなかったが、福田や北の顔を立てるかたちで、和泉村は一〇月一六日、さきの三原則にいわゆる公共補償についての「道路など公共事業を含め、現状の機能回復、工事に必要なものはすぐに施工する」という四番目の原則を加えることで知事一任を決め着工に同意した(『福井新聞』62・10・17)。 |