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 第五章 転換期の福井県
   第一節 「夜明け前県政」と産業基盤整備
    三 奥越電源開発と原子力発電所の誘致
      原子力発電所の誘致
 わが国の原子力開発は一九五五年(昭和三〇)の財団法人日本原子力研究所(翌年、特殊法人)の設置にはじまる。翌五六年一月一日には「原子力基本法」が施行され、原子力委員会(委員長は科学技術庁長官)、原子力局(科学技術庁内)が設置され、わが国の原子力開発の体制は整った。発電所の建設主体としては、原子力委員会を中心に電力九社と電源開発の間で調整が行われ、双方の出資による日本原子力発電株式会社が五七年一一月一日につくられた。
 福井県が原子炉建設の適地として取り沙汰されはじめるのは、六〇年、研究用原子炉を関西に建設する計画が予定候補地の反対で難航した時であった。県原子力懇談会が同年三月、誘致運動をはじめ、これに呼応して遠敷郡上中町と坂井郡川西町が名乗りを上げた(『福井新聞』60・3・16、18、19)。上中町は住民の合意が得られず誘致運動は進展しなかったが、川西町は積極的であった。県労評は四月五日、研究成果の軍事利用の恐れや放射能汚染の恐れ、誘致運動が議会や理事者のみにより行われ、自主、民主、公開の原子力研究の三原則を侵しているという理由をあげて誘致反対を決めた(『福井新聞』60・4・5)。
 結局、研究用原子炉は一二月九日に大阪府泉南郡熊取町に設置されることが決まり、福井県に来ることはなかったが、川西町は関係方面への積極的な働きかけを続けた。その運動が奏功し、日本原電が茨城県東海村につぐ商用二号炉を設置するさいの有力な候補地として認められ、六二年三月三日より委託をうけた県開発公社による現地調査がはじめられた。発電量三〇万キロワット、総工費四〇〇億円といわれていた大事業の誘致には県議会も積極的であった。とくに奥越電源開発が当時暗礁に乗り上げていたという事情もあって、この事業は是が非でも誘致したかったのである。同日、県議会は「本県としては、挙県一致大いにこの施設を歓迎し、万全の協力体制を整え本県への設置を期するものである」とする「原子力発電所誘致に関する決議」をあげた。これは、議決時に退席した社会党議員をのぞく出席議員全員一致のものであった(『第九十八回定例福井県議会会議録』)。
 現地調査の結果、地下五〇メートル以内のところには堅固な岩盤は発見されず、川西町は候補地から脱落することとなったが、一号炉を茨城県東海村につくった日本原電が商用二号炉を関西方面の日本海側に設置しようという方針にかわりはなかった。川西町で期待どおりの岩盤が発見できないといわれはじめたころより、有力候補地としての敦賀市が浮上しはじめた。五月七日、敦賀半島を候補地として調査することへの協力依頼が北知事になされ、翌八日には北知事より畑守三四治敦賀市長への申入れがなされた(『敦賀市史』下)。そして、六月五日には川西町が不適当であると発表されるのと同時に、敦賀半島突端の敦賀市浦底、立石、色浜一帯と美浜町丹生を候補地として調査するとの発表が原電首脳部によりなされた(『福井新聞』62・6・6)。
 敦賀半島の該当地区の住民は六月一九日には県開発公社との用地売買の仮契約を終わっている。敦賀誘致について懸念されていた反対運動も、さほど燃え上がらなかった。六月一〇日に県労評の定期大会があり、そこでは敦賀への原子力発電所誘致に反対の決議がなされるであろうといわれていたが、県労評は「原子炉そのものについての知識に乏しい。さらに調査の必要がある」ということで態度を保留した(『福井新聞』62・6・19、『読売新聞』62・6・19)。
 その後、用地取得も進み、有力な岩盤も発見され、七月一二日には県開発公社と日本原電の間で敦賀半島二地点の土地売買契約が成立した。九月二一日には敦賀市議会が原子力発電所誘致を決議する。二五日には関西電力が、二か所調査中の原子炉設置地点のうち一方を譲り受け、原子力発電所の建設を行うと発表し、美浜地点について日本原電から関電に土地売買契約上の地位を継承することで、県開発公社、日本原電、関電の三者間で覚書を締結し、敦賀側は日本原電、美浜側は関電が開発することに決定した(『福井県の原子力』)。敦賀側用地に関しては、道路の整備に対する住民の期待が高く、順調にことは運んだが、美浜側用地については自動車のとおれる県道が丹生地区まですでに通じていたことや、交渉相手が途中から関電にかわり買収予定用地が変更されたことなどもあり、交渉は紛糾した。関電、綿田捨三美浜町長が調整に乗りだし、翌六三年二月一八日、土地・山林補償の本調印が行われた(『県議会史』5、『読売新聞』65・3・30)。



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