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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
     三 繊維産業の再建
      繊維統制機構の再編
 敗戦後の商工省は、さしあたっては「糸配給統制規則」、「繊維製品製造制限規則」、「繊維製品配給消費統制規則」などの戦時統制法規をそのまま延長して統制を実施した。戦時中商工省の代行として原料・原糸の割当業務をとりしきっていた繊維統制会は、一九四五年(昭和二〇)一二月二〇日、業界の自主的団体の色彩を施した日本繊維協会に組織替えし、この日本繊維協会が割当業務等を継承することとなった。福井県織物工業統制組合は繊維統制会の改組に積極的に発言し、絹人絹織物業界の全国組織をつくり自主統制を行うことを提案したが、最終的には日本繊維協会の下部組織の一つである絹人絹部会に各府県の生産団体が所属するかたちに落ちついた。
 しかしながら、物資の欠乏と流通の混乱のなかで繊維製品の価格は急騰しており、四六年三月三日の「物価統制令」にもとづいて五月に告示された人絹織物の公定価格も前年一一月の物価・労賃を基礎として原価採算表を作成したもので、実態からは相当乖離した価格となっており、統制の徹底は不可能であった。こうした状況は他の産業も同様であり、四六年八月六日、総司令部は戦後経済統制の新機構確立を指令し、これをうけて経済安定本部、物価庁が、さらに一〇月には復興金融金庫が設立された。一〇月一日には戦後統制の基本法規である「臨時物資需給調整法」が施行された。そして一二月二七日、「昭和二一年度第4四半期基礎物資需給計画策定並に実施要領」が閣議決定され、四七年度出炭目標を三〇〇〇万トンとする傾斜生産方式がスタートした。翌四七年一月二四日には安定本部は「指定生産資材割当規則」を公布施行し、安定本部の立案する物資需給計画にもとづき四半期ごとに産業別に原材料の割当・生産統制を行う方式が確立した。これに対応して金融統制も再編され、三月一日「金融機関資金融通準則」により傾斜生産方式にともなう貸出優先順位を決定するとともに、日銀の手形貸付の担保適格となるスタンプ手形(貿易庁の認証印をうけた貿易手形)の適用範囲が拡大された(『商工政策史』16、『通商産業政策史』3)。
 この間、四六年一一月九日に公布された「商工協同組合法」(四七年二月一部改正)により、従来の統制組合は解散し、また施設組合は定款変更により任意組合に組織替えとなり、県織物工業統制組合も四七年三月一日に解散し、福井県織物工業協同組合(県織工組)となった。なお、前年七月に統制組合理事長となった山田仙之助が三月一日に急逝し、県織工組の新理事長には加藤尚が就任した。
 こうした組合からの統制的性格の剥奪は、総司令部の推進する独占禁止政策との関連で、既存の繊維統制方式の大きな変更を意味していた。すなわち、民間団体である日本繊維協会およびその下部組織による割当統制は私的独占行為であり、原則的に認められないことになったのである。この結果三月二八日に日本繊維協会の解散が決まり、以後業種別の協同組合連合会が多数設立され、県織工組は四月一日設立の全国絹人絹工業協組連合会に加入し、理事の前田栄雄が連合会副会長に就任した(七月より日本絹人絹工業会に変更)。以後、過渡的に、繊維協会(七月まで存続)、業種別諸団体が統制補助団体として割当業務を行ったが、四七年九月一〇日に公布施行された各種の規則により、従来の戦時繊維統制規則が廃止され、戦後の繊維統制方式が法規的に確立することになる。
 まず「指定繊維資材割当規則」により、商工省が、安定本部の定める需要部門別割当の範囲内で、工場別に資材の割当および割当証明書の発券を行い、各団体をとおして工場に指示および交付することになった。また「指定繊維資材配給規則」により、製造した製品を集買する卸業者および小売業者を登録制とした。これにより指定卸商として登録された県内の商社は二三社であったが、この集買は県外の卸登録商社も自由に参入できたため県外商社の進出が急速に進み激しい集買戦が展開されることになった。この対応策を講ずるなかで、四八年三月五日、県外卸登録商社で本県に出店している三六社と県内二三の卸登録商社により、福井県絹人絹織物商協会が設立された。さらに、衣料品の配給に関して「衣料品配給規則」「衣料切符規則」が公布され、四四年に打切りになった衣料切符制が復活した。
 県ではこうした繊維統制機構の確立にともない、九月三〇日、「福井県繊維製品処理委員会規程」(県告示第三三四号)を定め、原糸を含む繊維製品の買上げ処理の実務にあたる委員会を設立した。とくに横流しにより正規の集荷が困難になっていた人絹織物の買上げについて、戦時中に原糸割当になった分(四三年第3、4・四半期割当分、四四年第1、2・四半期割当分等を総称して「昭和二一年度臨時生産」と呼ぶ)を総計約一一万反と見積り、右委員会の下部組織である福井県人絹織物処理委員会において、一二月一八日より翌年三月末まで約七万反を買い上げる計画をたてた。四七年九月二五日の改訂公定価格で買い上げ、かつ新円で支払うという出荷奨励策がとられたものの、震災直前の四八年六月一七日の処理委員会から繊維局への報告ではなお二万一〇三五反が未集荷の状態となっていた。ちなみに、集荷された人絹織物のうち二万反は農林省水産局に引き渡され防水加工のうえ水産会へ配給となり、さらに二万反が東日本の六道県への産米報奨物資として引き渡された(『福井繊維情報』47・11・7、14、48・3・26、6・18)。
 なお、輸出入については四五年一二月一四日設置の貿易庁による国家管理貿易として行われ、輸出向け絹人絹織物についても同様であった。ただし当初は日本繊維協会の割当発注のもとに、実務は織配会社、日本人絹織物輸出振興会社等の輸出入取扱代行機関が処理していた。ここでもやはり、民間から統制的機能を剥奪することを意図した総司令部の意向をうけて、商工省は多数の代行機関を整理し、新しい統制機構として四七年五月二二日に繊維貿易公団を含む四つの貿易公団を発足させた。これにともない各府県における公団代理荷受人が決定され、県では一五名の代理荷受人のうち一二名が織配会社の重役陣によって占められ、残り三名については五業者が三ブロックをつくり指定をうけた。これらの代理荷受人の多くはさきの指定卸商と重複しており、また県外の代理荷受人も内需物と同様に産地で集荷できた。



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