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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
     三 繊維産業の再建
      占領初期の人絹織物生産
 一方、人絹は凍結を免れたため、ヤミ価格の急騰を背景に全国的に指定生産品の大規模な隠退蔵、横流しが行われた。一九四六年(昭和二一)二月の新円切替え後、統制下の県内織物業の動向を称して「ガチャ万景気」という言葉が生まれたのも、こうした人絹のヤミ取引の横行を背景としてのことであった。県内では四六年四月現在で推定三〇〇万ポンドの人絹糸が隠退蔵されているとみられており(資12下 一八三)、二月の「隠匿物資等緊急措置令」公布以降その摘発・強制買上げが断行されたが、急速に進行するインフレとこれにともなう公定価格の改訂を見込んだ人絹糸・織物の隠匿はおさまらなかった。四七年八月に発覚するいわゆる「第一織配事件」に関連する報道のなかでは、指定生産品は約三割しか正規のルートにのらず、ヤミ原糸による織物を加えると全生産の九割がヤミ取引に関係するといわれたほどであった(『福井新聞』47・9・23)。
 人絹糸の割当は四六年度より開始されたが、表78にみられるように敗戦直後の人絹糸の生産は微々たるものであり、第1・四半期の県下への第一回割当(内需向け一六三万ポンド、輸出向け四二万ポンド)も、第2・四半期を経過した一〇月にいたってなおその六割が配給されたにすぎなかった。そして、この第一回分の製品納入期限は翌年一月末とされたが夏になっても納入は進まず、八月には内需向け人絹糸の割当が停止され、四七年度の原糸割当は輸出向けに限り八回にわたって行われた(『福井新聞』47・8・8、『福井県経済要覧』、資12下 二四二)。なお、戦時中の人絹製織は各人絹糸メーカーによる特定工場に対する賃織製織の形式をとっていたが、戦後の輸出向け人絹製織においても従来の賃織工場を中心に当初約六〇の工場を適正工場として選定し、各メーカーの糸を工場ごとに指定して振りあてた(『福井新聞』46・7・13、10・14)。こうした割当方式は、メーカーと機屋との継続的な取引関係を維持するものであり、のちの系列化の芽を育むものであった。

表78 日本の人絹糸・職物の生産・輸出高(1940〜52年)

表78 日本の人絹糸・職物の生産・輸出高(1940〜52年)
 なお、四六年六月よりアメリカからの余剰棉花の輸入がはじまったが、これによる綿糸の割当を狙って綿織機に登録替えを希望するものも現われた。県織物工業協同組合でもこれに期待をかけ、第一次転換申請として四七年九月に二五八〇台の織機転換希望を中央に申請した。しかし大部分が書類上のみの転換であったため、実態調査によって大部分が振り落とされ、二〇工場二九一台の転換が認められただけであり、実際の綿織物への転換意欲はさしたるものではなかった(『福井県経済要覧』)。



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