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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
     三 繊維産業の再建
      占領初期の絹織物生産
 戦前のわが国の重要輸出品目であった繊維製品については緊急物資輸入の見返輸出品として総司令部は当初より重要視していた。福井県の絹織物および人絹織物は、それぞれこうした占領行政のあり方に大きく左右されることになった。
 一九四五年(昭和二〇)九月二五日に総司令部が発した「製造工業の操業に関する覚書」により、軍指定生産工場において凍結されていた繊維原料・製品の加工・移動が許可されたが、生糸・繭糸・絹または絹交織品など絹関連の品目については例外とされ、総司令部の承認がないかぎり放出が認められないこととなり、凍結された生糸は五万五〇〇〇梱、絹織物は三億三〇〇〇万平方ヤールにのぼった(『商工政策史』16)。
 総司令部は当初生糸のアメリカへの輸出を重視していたが、アメリカ市場では人絹・ナイロンに押されて生糸輸出が早くから停滞を示したため、総司令部はしだいに輸出の重点を絹織物に移し、四六年四月には、凍結生糸の輸出向け絹織物製織への解放を行った。四月八日の総司令部「輸出向絹織物の生産に関する覚書」では、輸出に不適格な生糸を輸出向け絹織物業者として特選された業者に割り当てる旨が発せられ、これをうけて七月一五日、「輸出向絹織物の製造等に関する件」、「輸出向絹織物の検査について定める件」において、絹織物業者に対して日本繊維協会の割当・指示にしたがって指定生産を行うこと、製品は輸出絹織物検査所の検査をうけることが決められた。そして最終的には四七年八月二〇日の総司令部「絹の処置に関する覚書」で、生糸・絹織物の凍結が解除になった(『通商産業政策史』4、『商工政策史』16)。
 県下の織物業者の手元で凍結された生糸は、四五年末現在で開俵糸二〇九〇梱、未開俵糸八九四二梱で、未開俵糸の約八割が日本蚕糸統制会社により輸出向けとして買い上げられた(資12下 二四二)。また、四六年一月には総司令部より見返物資として凍結中の羽二重五万疋の出荷要請があり、福井精練加工で加工整理のうえ、織物配給会社を通じて貿易庁に引き渡された。さらに九月以降、こうした業者手持ち絹織物の見返物資向け出荷が日本絹人絹糸布輸出組合福井支部の取扱いで行われ、三か月間で約一五万疋を数えるにいたった(『福井新聞』46・1・26、12・21、29)。
 県織物工業統制組合ではたびたび生糸の割当を関係方面に要望していた。石川県とともに日本蚕糸統制会社保有の繭短繊維の獲得運動を行った結果、五月に約四〇万貫(福井県へは約三〇万貫)の引渡しを得たのが最初の原糸割当だった(『福井新聞』46・1・15、4・12、資12下 一八三)。また七月には全国の業者手持ちの開俵生糸五五〇〇梱を見返物資用に製織して輸出することになり、福井県へは二五〇〇梱が割り当てられ、県織物工業統制組合では実績、設備、技術等により輸出絹織物適正工場を区分して製織割当を行った(『福井新聞』46・7・21)。当面の生糸解放は輸出向け絹織物用に行われ、輸出向け以外に原糸が割り当てられるのは、四七年三月に輸出向け不適格生糸約五万俵を中心とした内需向け割当が決定された後のことであった(『福井新聞』47・3・10)。



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