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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
     三 繊維産業の再建
      敗戦直後の工業生産
 大戦末期以来の壊滅的打撃と物資流通の混乱のなかで敗戦をむかえた県下の各工業部門は平和産業への再転換を迫られた。敗戦当時の軍需関係工場は約三〇〇、その他の工場は約一二〇〇あったといわれるが(『福井県経済要覧』)、既存設備の民需転換に関しては、総司令部は個別審査のうえ承認する方針をとった。県労政課による県下五六七工場の調査では、一九四五年(昭和二〇)九月末現在で、(1)民需転換して操業を継続中二八六工場、(2)事業転換し全面操業二一工場、(3)事業転換し部分操業二一工場、(4)工場解散一一八工場、(5)考慮中一二一工場となっている。繊維工業では調査一七一工場中一二〇、木・竹工業では調査一三一工場中九九が(1)に含まれており、転換が比較的容易であったが、重工業(機械器具、金属等と思われる)では調査一七三工場の内訳は(1)二〇、(2)九、(3)一三、(4)五六、(5)七五となっており、軽工業と比べてこれらの転換の承認は遅れた(『福井新聞』45・10・8)。また、三菱重工業、日国産業など四つの会社の機械が賠償機械に指定され、総司令部の指示による維持・管理がなされた。
 このように民需転換には部門間に進捗の違いがあったものの、いずれの部門もさしあたり手持ちの資材で操業を続けざるをえず、原料、副資材、燃料の入手、労働力の確保等の困難に直面した。たとえば、四五年五月に大同化学工業を吸収合併して発足した信越化学工業武生工場は全面的に石灰窒素肥料の生産に切り替えたが、燃料のコークスの配給がなく木炭を入手して生産を行った。福井県唯一の肥料工場として県の期待も大きかったが、こうした代用原料の使用に加えて、同工場の電炉が旧会社以来低効率であったこと、また原料のカーバイドの品位が劣悪であったこともあり、製品である石灰窒素の低成分に悩まされた(『信越化学工業社史』)。労働力調達の面では、戦時動員にともなう男子熟練工の不足が著しかったが、非熟練工や女子においても、農業部門や戦災復興に関連する建築・土木部門への労働力移動が大きかったため、恒常的に求人数が求職数を大きく上回る状況だった。
 あらゆる部門が多くの隘路に直面するなかで、県の経済復興の鍵となる繊維産業の地位は相対的に低下していた。表77は、大戦直前(四〇年)と直後(四六年)の県の工業生産の変化を示したものである。これによると、大戦直前には紡織工業が工場数で四割、生産額で七割五分以上を占めている。その他の部門では工場数で製材・木製品が、生産額で化学工業がこれについでいるが、いずれも五人未満の零細工場が圧倒的に多い。他方、大戦直後をみると、紡織工業は工場数では五割をこえ、戦前を上回っているにもかかわらず、生産額では四割弱となっており、この紡織工業の生産額が相対的に減った分、他部門、とりわけ製材・木製品、化学、機械・器具、金属などでふえている。

表77 福井県の工業生産(1940、46年)

表77 福井県の工業生産(1940、46年)
 戦前の織物工場数二五二七、登録織機台数九万一九七六が、戦時中の企業整備、戦災等により四六年四月には工場数九七一、織機台数三万二七〇九と、それぞれほぼ四割以下となっているが、総生産額に占める紡織工業生産額の割合の低下はこうした戦時中のできごとでは説明できないほど大きい。もちろん、ヤミ取引の横行を考慮に入れるとこの統計上の数値には過小評価があるかもしれないが、四七年の民間貿易の再開を迎えてもなお、織物部門では総設備のかろうじて三割が操業を維持している状態であり、この産業の混乱がはなはだしいものであったことは想像できよう。



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