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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
     三 繊維産業の再建
      制限つき民間貿易の再開
 一九四七年(昭和二二)六月一〇日、総司令部は八月一五日より制限つきながら民間貿易を再開する旨の特別発表を行った。実際には九月一日より開始されることになったこの民間貿易は以下の手順をふんだ。すなわち、来日したバイヤーが主要都市に設立された日本貿易館や同地方分館、地方団体の設立した見本展示所で見本を選ぶ、貿易庁の設定するドル建て価格を前提としてバイヤーと当該見本取扱業者との商談が成立すると貿易庁とバイヤーとの間で正式の売買契約を締結する、貿易公団は業者との間で売買契約書または加工委託書を取り交わし、その後公団が製品を買上げまたは引取り、船積みを指示する、というものであった。もっとも民間貿易が増加傾向をたどりはじめたのは四八年以降綿織物の輸出契約が急増してからであり、当初はこの形式の輸出実績は伸びなかった。これに先立つ四七年末までは金属類・雑貨・農水産物が多かったが、繊維関係ではアメリカ向けのネッカチーフ用軽目羽二重が主たる輸出品となっており、福井県の織物産業はこの貿易公団による輸出向け絹織物の委託賃織に一筋の光明を見出すことになる(『通商産業政策史』4)。
 県内の輸出向け絹織物の貿易公団委託製織は、四七年一一月に原糸割当が決定された四七年度第三回割当約一二万五〇〇〇疋からはじまるが、このうち五万八〇〇〇疋が翌年三月二〇日を期限とする六匁付軽目羽二重緊急生産分であった。この軽目羽二重緊急生産は、当初九一名の組合員に割り当てられたが、町村別にみると、割当疋数の首位は今立郡南中山村で一万六六〇〇疋(六名)、ついで大野郡勝山町七五〇〇疋(二四名)、今立郡神明町三九〇〇疋(一五名)、同鯖江町三一二五疋(五名)などとなっており、戦前以来の軽目羽二重の特産地である南中山村、やはり絹織物生産が高い比率を占める勝山町といった実績のある地域が選ばれた(『福井繊維情報』47・11・14)。また、酒伊合同紡織(福井市・鯖江町など、二四年三月現在織機台数二二三八台)、勝山機業兄弟(勝山町、同九六八台)、松文産業(勝山町、同八八〇台)、日の出織物(今立郡粟田部町、同八二二台)、山仙織物工業(同中河村、同七七三台)、中権織物(南中山村、同三一一台)、敦賀織物(南条郡武生町、同三〇九台)、中留織物(南中山村、同二八〇台)など、いわゆる大機業への割当が優先された(『福井繊維情報』49・3・8)。
 しかし、割当は決められたものの、一二月末になっても原糸は二割程度しか入荷せず、副資材・燃料価格および賃金の高騰、電力の供給制限の頻発、さらには割当生糸の品質低下などにより製織は期待どおりには進まなかった。当局は三月末の完納を実現せんと、さまざまな督励措置をとった。たとえば、製織工賃の全般的引上げを認めるとともにとくに六匁付羽二重に対しては二五%の報償金を交付すること、労働者に対しては主食の特配、作業衣等の報奨物資の配給等の措置を講ずること、優秀工場に対して表彰制度を設けることなどが行われた。資金面ではすでに繊維に関して資金優先順位が甲ノ一に指定されていたが、なお公団は日銀、市中銀行と業者間のあっせんにつとめることを約束した。また、六匁付製織工場を中心として電力の重点的な供給措置がとられた。こうした方策が功を奏して三月二九日現在で五万九二八六疋が検査を完了し、所期の目標を達成するとともに、さらに第二次緊急生産として五月末を目標に六匁付五万五〇〇〇疋をはじめ約八万疋の羽二重の委託製織が決められた(『福井繊維情報』47・11・28、12・5、48・1・9、4・2)。
 このように民間貿易の再開にともない県下の製織業者の生産意欲はおおいに高まるが、四七年八月に発覚した「第一織配事件」もこうした復興への期待のなかでうやむやなかたちで終わることになる。この事件は、八月はじめ他県への指定人絹織物横流しの嫌疑で県織物配給会社重役が検挙されたことに端を発し、県織工組幹部の東京における横流し事件に飛び火し、その結果東京地方検察庁から検事が派遣されて県織物業界に全面的なメスが入れられた事件であった。一〇月はじめの時点で明らかとなった横流し数量は、織配会社関係、織物工組関係、生産者関係あわせて約六二万反にものぼり、多数の業界幹部が重要関係者として取調べをうけるなか、中旬には最高検察庁より特別捜査遊撃班の派遣をみる。だが、業界の側では価格統制の破綻による生産の困難が事件の根本原因であるとして、こうした強権的な取調べに対する反発が強く、一一月に遊撃班が帰京すると、ただちに自浄努力の表明と起訴にいたった関係者の減刑歎願運動を展開した。一五日には福井地方検察庁の検事が中央との意見対立を理由に辞表を提出するが、これも業界や県の事件鎮静化への動きを背景とするものとみられる(『福井新聞』47・8・6、14、9・18、23、10・5、10、12、14、11・1、26)。



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