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 第三章 占領と戦後改革
   第二節 政治・行政の民主化
    一 新制度の発足と指導者層の交代
      初期の県議会
 県議会、各市町村議会議員の選挙も、地方自治法の施行直前の一九四七年(昭和二二)四月三〇日に行われた。戦後第一回の県議会議員選挙には定数四〇人のところに一一三人が立った。三、四〇歳代の人がおよそ八割を占め、最年少者は二六歳という若い候補のめだつ選挙だった。戦前の最後の県会議員選挙が三九年九月だったので、前職はかなり長い任期をつとめていたこともあるが、再選されたのはただ一人だった。
 四七年五月開催の第一回県議会では農民連盟派の議員一九人と民主党などの都市部の非農民連盟派議員一九人の間で議長人事をめぐり調整がつかず、定刻になっても本会議が開催できないということもみられたし、翌六月に開かれた第二回県議会においては、なお会派による議事運営のルールが確立していないということもあって、一般質問に二〇人の議員が次々に登壇して延々と陳情風の質問をするということもあった。
写真53 福井県議会(1947年10月)

写真53 福井県議会(1947年10月)

 農民連盟は、知事選では惜敗したものの、小幡知事をおびやかしたその組織力をもって多数の議員を県議会に送り込み議長団も自らの陣営から出そうとしたが、都市部の議員たちはこれを喜ばず彼らも議長団の候補を絞ってたがいににらみ合うことになった。最後には県政界の長老格の池田七郎兵衛や坪川信一が乗りだし、抽選で戦後初代議長は反農民連盟派の野村栄太郎、初代副議長は農民連盟派の高波武右衛門が就任することになって調整がつき、予定より四時間遅れてようやく開催にこぎつけた(土田誠『福井県会騒動記』)。
 第二回県議会の一般質問に二〇人もの議員が登壇することになったのは会派の結成を自粛していたという事情がある。議長人事や常任委員会人事などで出身地域や利害などによる派閥が自然にできあがってはいたが、議事運営にあたってこれを会派として認知することは差しひかえられた。戦後の混乱から立ち直ることが急務で県議会は一本化されるべきで会派に分かれて争っている場合ではない、という空気が県政界を支配していたからである。翌四八年も震災や洪水があり、会派が県議会のなかで認知されるのは四九年二月の第一七回定例県議会からである(『県議会史』4)。以降、一般質問は会派を代表して行われ、議事の調整などは会派間の会議で行われるようになった。



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