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 第三章 占領と戦後改革
   第二節 政治・行政の民主化
    一 新制度の発足と指導者層の交代
      市町村長の公選
 知事選挙の行われた一九四七年(昭和二二)四月五日、市町村長の選挙も行われた。戦前の制度では、市長は市議会が内務大臣に推せんし、内務大臣が勅裁を経てこれを選任することになっており、町村長は町村議会が選出して知事の認可をうけることになっていたが、地方自治法により市町村長も住民の直接選挙により選ぶことになった。
 この時点で福井県には福井、敦賀の二市のほか、一六町、一五二か村の自治体があり村の一部は役場事務組合をつくっていたので、総計一六五名の首長が選び出されることになったのである。三国町長が無投票当選であったほか、二六か村で村長が無投票当選したが、そのほかの自治体ではいっせいに選挙が行われることとなった。
 福井市長には、それまで旧制度下で市長をつとめていた熊谷太三郎が当選した。熊谷は敗戦の時点で市議会議員であり議長職をつとめていたが、市長であった落合慶四郎が四五年九月二日で任期を終えたのちに福井市議会の全会一致の推せんをうけて市長となっていた。四七年の最初の市長選挙では熊谷市長が進める都市計画が争点となり、これに反対する人びとの票が元市議会議員の芳賀栄作に集まったためある程度苦戦を強いられたが、結局は勝利をおさめた。敦賀市では、敗戦時市長職にあった田保仁左衛門が追放令に該当し、四六年九月二六日に辞職した。当時は四六年一二月に市長公選が行われるといわれていたため、後任市長選考は行われず、助役をつとめていた関市太郎が市長代理に就任し市政にあたった。四七年四月の市長選にはこの関も立候補したが、当選したのは元敦賀商業学校長で、市政の民主的運営を前面に掲げ青年層に支持された川原与作であった。
 町村長選挙のなかでとくに注目されるのは勝山町である。大方の予想では機業家の山岸伊之助が有利であると考えられていたが、実際に当選したのは山内譲であった。彼は、当時四二歳の引揚者であり、地元の事情に通じていたとはいえない。しかし、大学出のインテリであるということで、旧習を打破し新しい勝山を建設するのだという青年団や引揚者、疎開者を中心とするグループなどから熱心に出馬要請をうけ、彼らの期待を担って立ったのである。選挙運動もこうした支持者が手弁当で行い、大いに盛り上がり、予想を裏切って当選したのであった。戦後民主主義を象徴する選挙であったといえるだろう(『勝山市史』通史編3)。
 こうして選ばれた市町村長についても、当選後さまざまの困難に直面して職を投げ出す者が続出した(資12下 二三)。とくに就任早々に市町村長を悩ませたのは新制中学校の設置問題である。新生市町村議会の選挙区は市町村全域であるが、実態として各集落代表が選出されていることが多く、戦後の教育改革の結果設置されることとなった中学校の設置場所をめぐって、それぞれが出身地区の利害を言い立て、調整は困難をきわめた。この件をめぐって戦後認められたリコールの権利を住民が行使し(丹生郡糸生村が典型)、これによって職を解かれた首長やリコール請求が出ると同時に自ら職を辞する首長もあり、こうした首長たちが「議会との対立」を理由に辞職したものであると考えられる。しかし、財政難もあいまって、奔命に疲れた市町村長が「一身上の理由」で辞職しているものもあり、地方自治の船出は前途洋々というわけにはいかなかった。



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