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 第三章 占領と戦後改革
   第一節 占領と県民生活
    三 福井震災
      復旧対策の展開と援助活動
 災害発生により、一刻も早い負傷者の救出と消火活動、被災者の安全確保が望まれた。福井県ではすでに一九四七年(昭和二二)一〇月の「災害救助法」にもとづき、翌四八年一月には福井県災害救助隊を組織していた(資12下 六五)。しかしながら、大被害に対する救助隊活動は全国初のことであり、いまだ十分な訓練もなく、くわえて隊員たる行政職員の多くが罹災したために、当初において統制のある活動はむずかしい状況であった。
 公務により大阪にあった小幡知事は、ただちに大阪・京都府に救援を要請し、翌二九日に帰県した。その間、北副知事を中心として、消火・救助活動、各地の被害状況など情報の収集活動や、丹南方面の地方事務所に炊き出しを依頼するなど食糧の確保につとめた。また比較的被害が軽微であった福井放送局から各府県・政府に対する救援依頼の放送も行った。
 震災による負傷者約二万人のうち、軽傷者は学校や役場の空き地に設けた臨時救護所で、日赤や他府県からの応援救護班によって巡回治療をうけたが、重傷者は日赤福井病院や鯖江病院へ、とりわけ坂井郡においては九頭竜川渡河困難のため石川県山中国立病院などへ収容された。しかし、負傷者のあまりに多いことと、医療器具・薬品の不足によって、当初関係者の熱心な活動にもかかわらず文字どおり応急処置が精一杯であった。
 県では七月一日、「福井県震災対策本部設置規程」を公布、即日実施し、県庁に県本部を、政府との折衝の要から日本橋に東京本部を設置、さらに被害の著しい坂井郡には対策本部丸岡出張所を設置して、本格的な復興に着手した(資12下 六七)。また同日開かれた臨時福井県議会においても、連合国軍総司令官および政府各機関にあて、復興援助の請願文・決議文を議決した(「第十回臨時福井県議会会議録」)。
写真49 春江町の傷病者収容所 

写真49 春江町の傷病者収容所 

 交通の復旧はとくに急がれた。前述のように、九頭竜川による被災地の南北分断と交通途絶によって、救援物資や応急復旧資材の輸送に多大な困難が生じたからである。近畿・東海方面から福井市に集まった救援物資の一部は、九頭竜川上流の五松・鳴鹿の両橋をまわって丸岡町へ、また船で足羽川をくだり三国に運ばれたが、坂井郡内の道路が倒壊家屋にふさがれ、あるいは損壊したためトラックが通れず、各村むらへは震災後一週間ほどたってようやく届きはじめるありさまだった(『福井新聞』48・7・9)。大野・今立郡はじめ県内非災害地より勤労奉仕隊三五〇〇人あまりと、石川・富山県の工作隊七八〇〇人あまりが、道路上の倒壊家屋の整理、舟橋・中角橋・明治橋などの仮橋架設工事に尽力し、道路・橋梁は七月中旬にいちおうの復旧をみた。また堤防についても、勤労奉仕隊および近府県応援隊の協力をえて被害の著しい九か所を中心に第一次応急工事を行った。
 なお、七月一五日の『福井新聞』は、県震災対策本部は災害救助法に正式にもとづかず「官僚独裁の弊」がみられるとの記事をのせており、その運営には種々問題もあったようである。また小幡知事は、同年一一月に開かれた放送討論会で災害救助法の適用についての問題点をふりかえり、災害時の飲料水の供給、共同トイレの設置、仮設電話・ラジオなど通信情報手段確保の必要性や、非常時における国家警察、自治体警察、消防の一元的活動の重要性などを指摘しており注目される。
 政府は六月二九日中央災害救助対策協議会を開き、現地凍結米の解除、第一封鎖預金の払出しのほか、薬品、建築資材、衣料品等の物資放出を決定、あわせて政府代表を現地に急派した。七月五日には三笠宮の慰問があり、芦田首相ほか閣僚も福井を視察している。また、国家警察本部も災害後の治安維持の観点から愛知県・京都府などより警官を派遣した。
 その他県では、各地から送られた多くの援助物資や義援金をうけいれるとともに、仮設住宅建築とライフラインの復旧など、さらなる復旧対策の推進と政府に対する財政援助の請願を続けた。義援金は罹災者に配分されたが、一部は震災記念病棟建設費・県立図書館建設費・罹災中小商工業者金融の県信用保証協会出資金に充当された。



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