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 第三章 占領と戦後改革
   第一節 占領と県民生活
    三 福井震災
      地震の発生と被害状況
 一九四八年(昭和二三)六月二八日午後五時一三分過ぎ(サマータイムで、現在の四時一三分過ぎ)、坂井郡丸岡町付近を震源とする大地震が発生した。主として九頭竜川沖積層地帯を中心に甚大な被害をもたらしたこの地震は、一か月後におこる大水害とあいまって自然の猛威を人びとに知らしめることになる。
 地震の規模はマグニチュード七・一、地震エネルギーにして関東大地震の約十分の一程度であるが、極浅発性かつ直下型の内陸地震であったため、「被害地区は比較的小範囲にも拘らず、其の地区内の被害は本邦地震史上稀に見る」惨状となった(『理科年表』、新潟管区気象台「福井烈震速報」)。県内の被災地域は、今立郡北中山村から福井市、吉田郡の森田町、坂井郡金津町を経て吉崎村にいたる南北約六〇キロメートルを中心とし、東西約二〇キロメートルの一市六郡におよび、ほぼ福井平野全域で家屋全壊率が六〇%をこえた。ことに坂井郡丸岡町、磯部村、春江町などの町村では全壊率一〇〇%と、文字どおり壊滅的被害をこうむったため、これを契機としてあらたに気象庁震度階に震度七(激震)が設けられた。
 死者・行方不明者三八五八人、被害総戸数四万六一一五戸にものぼる被害は、一九四五年以降では阪神・淡路大震災(九五年一月)につぐものであり、さらに断水・停電やガスの供給停止を引き起こし、電信・電話もごく一部をのぞいて不通となるなど、ライフラインが分断された(『福井震災誌』)。
 農村では、水田に地下水や土砂が噴出するなどの流動化現象、あるいは地割れによる水枯れが生じ、十郷大堰や芝原用水をはじめ水門の破損・用水路の決壊などがあいつぎ、農業倉庫や農機具などの生産手段もことごとく破壊された。それら農林関係の被害総額は、約一一七億六〇〇〇万円あまりと見積もられた。一方繊維を中心とする福井県の商工業もその例外たりえず、繊維工場の約六割、中小企業工場の約七割が罹災した。銀行などの金融機関も全壊または焼失したものが多く、商業活動も麻痺した(『福井震災誌』)。
 道路は各所で路面の陥没や亀裂、横ずれなどが生じ、国道一二号線、県道福井加賀吉崎線をはじめ総延長五九九キロメートルにわたって損壊した。とりわけ九頭竜川架設の舟橋・中角橋(鉄筋コンクリート)、足羽川架設の板垣橋(鉄筋コンクリート)・木田橋、日野川架設の明治橋などが落橋したため、交通は致命的な打撃をうけた。つまり、行政の中心地としての福井市と、被害著しい坂井郡一円とが九頭竜川によって南北に分断される結果となり、ために河北部の被災状況把握と、その後の救援物資や応急復旧資材の輸送に、深刻な影響をあたえたのである。また、九頭竜川をはじめ各河川の堤防は、一〜五メートルも沈下、各所で亀裂や崩壊がおこり、これが一か月後の大水害を引き起こす原因ともなった(『福井震災誌』)。
写真48 福井震災

写真48 福井震災

 さらに被害を拡大させたのは、本震後に発生した火災である。一市二〇町村で出火したが、とくに福井市(二四〇七戸焼失)、丸岡町(一一七六戸焼失)、金津町(三〇四戸焼失)、春江町(一二一戸焼失)、松岡町(八四戸焼失)、森田町(四三戸焼失)での被害が著しかった(『福井震災誌』)。福井市では、国際劇場付近ほか七か所から出火した炎が、おりからの南風にあおられて、日の出町・佐佳枝上中下町・大名町・御屋形町・大和下町・錦上中下町・佐久良上中下町・花月新町・毛矢町を焼きつくす広域火災となり、猛火は翌未明まで続いた。消火活動は困難をきわめ、断水により消火用水がとぼしい状況下、ついには付近の建物を破壊して延焼防止につとめた。市内ではほぼ丸一日たって鎮火のきざしがみえたが、全地域の完全消火には五日間かかった。原因として、かまどや七輪などの炊事出火のみならず、学校の実験室や工場の薬品発火、配給貯蔵マッチの地震動による自然発火が指摘されている(日本建築学会学術研究会議北陸震災調査団「北陸震災調査概報」)。また丸岡はじめ五町においても、狭い道路をはさんで古い建物が立ちならぶ状況であったため、倒壊家屋が道路をふさぎ延焼を早めた。
 戦災より三年あまりが経過し、ようやく復興なりかけたこの時期にあってはいまだバラック建てが多く、不安定な構造であったことが全壊率をこれほどまでに高くしたのである。この震災を契機として、五〇年には建物の難燃化を含む「建築基準法」が制定されることになった。地割れに呑み込まれて死亡する事故や、重力波現象、のちの新潟地震で注目される液状・流動化現象など、福井地震は以後「直下型地震」の代表的な例として知られることになる。



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