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 第三章 占領と戦後改革
   第一節 占領と県民生活
    二 占領下の県民生活
      援護活動
 引揚者への援護も緊急の課題であった。一九四五年(昭和二〇)一一月には恩賜財団軍人援護会福井県支部から市町村にあて、復員者への援護の徹底を通達した(資12下 五)。小浜、敦賀の駅近くには復員者慰藉接待所が設けられ、列車の停車中を利用して湯茶のサービスなど慰問が続けられた。とくに敦賀市には県・市の関係各課をはじめ、警察署、動員署、二州地方事務所、市内銀行および同市周辺の五か村が協力して事務所を設け、案内、相談、仮設宿舎、応急食糧・生活必需物資の給与、通貨交換、応急診療などにあたった(『福井新聞』45・9・28)。
 しかし、四六年一月に軍人援護会が解散し、二月には軍人恩給が傷病恩給をのぞいて廃止されると、軍人ならびに遺族のくらしはますます困窮した。三月には軍人および戦災者の援護を目的とした、知事を支部長とする同胞援護会福井県支部が設立されるが、概して引揚者に対しては戦災者に比べ対応が冷淡であるとして、四月二三日には福井市公会堂で引揚者大会が開催され、生活の救済を県に対して求めていた(『福井新聞』46・4・20)。
写真47 同胞援護を呼びかけるチラシ

写真47 同胞援護を呼びかけるチラシ

 こうしたなか、戦没者遺族の結集と団結を訴える運動が、旧鯖江連隊周辺の遺族を中心にすすめられ、四六年七月、約一万一六〇〇世帯の遺族が結集し福井県遺族互助会が発足した(福井県遺族連合会『四十年の歩み』)。同会は募金活動を中心として、遺族の実情調査や援助、職業あっせんなどに尽力した。またこれとは別に、金津町の第一・第二進伸倶楽部、武生町の武生興和会、鯖江町、丸岡町、三方郡耳村の各授産所では、農地開拓・薪炭製造・竹工業・託児園・げたの鼻緒製造・洋裁など、復員軍人や遺族による自力救済への動きもみられた(「福井地方世話部報」4)。一方、県でも四九年四月全国的展開に呼応して、引揚援護愛の運動県協議会ならびに市町村協議会を結成し、引揚者援護運動の啓発のため、これ以後毎年強調月間を設けて広く県民への呼びかけを行った(旧平泉寺村役場文書)。
 復員・引揚者のなかには、食糧増産を意図した政府の緊急開拓政策にもとづいて、帰農を志す者もあった。鯖江・敦賀の旧練兵場や大野郡六呂師・敦賀市公文名の旧演習場は集団帰農地として開放されたほか、県内三二か所の開拓地に入植した(資12下 一九八)。当初県では農務課と耕地課が帰農者の募集事務を行ったが、のち農地部開拓課が主幹となって事業が推進された。
 開拓に応募した者は四五、四六年度は主として引揚者、戦災者、疎開者が中心であり、農業に不慣れな者も多かった。しかも失業救済的見地から入植者の選定がなされたこともあり、資金難、営農技術の拙劣さと国・県の開拓政策の貧困さから脱落者も多数あった。四七年「自作農創設特別措置法」が実施されるにいたり、入植者の選定は将来自作農になれる見込みがある者とされ、農業経験や労働力のある者が選ばれるようになった。これは、開拓事業が民生事業的性格から農業政策の一環として位置づけられたことを示している。五六年には、県下の入植者七五〇戸、地元増反者七〇〇〇戸、造成された耕地面積は四〇〇〇町歩に達した(『福井県開拓十年誌』)。



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