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 第三章 占領と戦後改革
   第一節 占領と県民生活
    二 占領下の県民生活
      食糧の供出と配給
 すでにみたように、逼迫する食糧事情の改善は農家による主要食糧の供出いかんにかかっていた。国民の最少限の食糧を確保するという国家的要請は、「供出優先による自家保有の無視」へと供出制度を強化することになった(『食糧管理史』需給篇・総論)。
 福井県における一九四五年(昭和二〇)から五〇年までの米の供出状況は表63のとおりである。供出割当数に対する進捗率は四五年をのぞいていずれも一〇〇%を達成しており、四七年一二月一〇日には全国第一位で完納を果たすなど、供出成績はきわめて良好である(「大正昭和福井県史 草稿」)。他府県と比較してみても、推定実収高に対する政府買入数量の割合(実質供出割合)はつねに一〇位前後を維持していた(『農林省統計表』)。ただし、供出割当数量が全国的にみて中位以下であったこと(四七年二四位、四八年二七位、四九年二六位、五〇年二八位)、早期供出奨励金制度が早場米産地としての福井県に有利にはたらいたことなど、いくつかの諸事情をも勘案すべきであろう。

表63 米の推定実収高と供出高

表63 米の推定実収高と供出高
 つぎに表64は、供出米の県外への移出状況である。いわゆる「赤字搬出」によって、主として近畿地方を中心に九月から一一月に多く移出されている。これはとくに四七年に顕著であり、食糧事情の改善にともない年ごとの総移出量は漸次減少、月ごとの移出量もおおむね平均化していくようすがわかる。
 四五年、政府は産米の減収と供出不振に対して個人割当・総合供出制を採用した(資12下 一九九)。前者は従来部落ごとに割り当てていた供出量を個人ごとにすることで、各人の供出責任を明確化するとともに増産・供出意欲の喚起をねらうものであった。また後者は、屑米・当年産麦・雑穀・切干甘藷は無制限に、生いも・未利用食資源(どんぐり、いもづる、大根葉など)は一定程度米に代替させる制度であり、食用になしうるかぎりの資源を総動員して配給量を満たそうとする政府の方針は、食糧不足の深刻さを物語っていた。さらに政府はヤミ取締強化と、四六年二月の「食糧緊急措置令」によって強権発動の法的根拠を整え、隠匿物資の摘発を断行した。その一方で、米の政府買入価格は四五年一一月に一五〇円、四六年三月の第二次改訂では三〇〇円に引き上げられ、供出完了者には農機具、衣料、肥料、酒などの特配も行われるなど、供出確保のためのさまざまな対策が講じられた。しかし、四五年産米の県への割当が決定したのが一一月七日、各地方事務所へは一一月一六日、個別農家に対しては同月末ころと割当決定が遅かったこともあって、食糧に窮するものはこれを消費してしまい、また米の横流し・ヤミ売りもあとをたたず供出は低調であった(『福井新聞』45・11・8、17、12・27)。

表64 米の県外移出状況(1947〜50年)

表64 米の県外移出状況(1947〜50年)
 翌四六年産米の供出割当は、同年九月五日の地方長官会議において、当初食糧管理局と知事側の意見が食い違い難航したが、個別折衝により予想収穫高五七五〇万石、供出高二八〇六万石と決定した。しかしこの過小な生産見込は総司令部が承認しなかったため、政府は供出量の一割を超過供出として確保する方針をとった。四七年三月までの義務供出完了と、四月末までの一割の超過供出完了を知事に要請し、超過分については特別報償金を追加したのである(『農林水産省百年史』下)。政府はこれに加え、四七年二月のアメリカ食糧調査使節団による「供米の完遂が食糧輸入の前提」とする声明により、占領軍の権力を背景とした強権供出を行った。各県の軍政部においてもいわゆる「ジープ供出」が行われたが、福井県でも四七年四月に福井軍政部から若狭地方事務所長あてに「質問書」の形式で一一〇%供出完遂をきびしく命じている(資12下 二〇三)。結局四七年五月に一一〇%完納を果たしたものの、きびしい供米督促が「米つくりの米買い」状況を生みだし、農耕意欲の減退が懸念された(『福井新聞』47・5・6)。これに対し県は「食糧危機突破並産米百万石突破運動」を実施、その「目的」のなかで、「諸般の状勢より稲作を他作物に過度に転換するもの或は水田放棄の傾向にあることは極めて重視すべき又厳に慎むべきこと」であるとこの風潮を牽制する一方、「供米非協力悪農」を一四〇名あまりリストアップして、その一部を検挙した(資12下 一九七、『福井新聞』47・6・13)。ただし強権発動については、すでに四六年四月の日銀福井駐在員事務所長の報告にみられるように、その押収分については結局還元配給を必要とするため、政府保有米が増加するわけでもなく、せいぜい「次期ノ供出ニ対シ多少好影響ヲ与フ」程度だとみられていた(資12下 一八三)。したがって発動にあたって当局は慎重であり、多分に見せしめ的な側面があったようである。
 四七年九月に行われた同年産米の割当会議は、前年にもまして難航した。市町村および生産者別割当の議決機関たる食糧調整委員が八月から公選となったこともあり、かつ公選第一回目の各県知事が生産数量を過小評価し、義務供出割当の縮小に腐心したためである。この問題は総司令部の圧力により収拾されたが、その後政府は四八年七月の「食糧確保臨時措置法」によって米・いもの事前割当制を実施した。「農民の生産努力による増収を一部自家保有の拡充にあてるとともに一部超過供出にあてようとする構想」は、むしろ超過供出報償金の激増をまねくことになった(『食糧管理史』需給篇・総論)。
 以後食糧の供給は国内生産の回復と輸入の増加によって年とともに回復し、配給基準量も四六年一一月に二合五勺、四八年一一月には二合七勺へと順次引き上げられた。また四八、四九年ころからいも・麦などの配給辞退者が増加し、五〇年度からいも類、五二年度から麦の統制が解除された。なお食糧営団の配給業務は、四八年に全額政府出資による食糧配給公団へと引き継がれ、福井県支局の開設とともに直営配給所一〇四か所・代位配給所九五か所を通じて業務にあたった(『大正昭和福井県史』上)。



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