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 第三章 占領と戦後改革
   第一節 占領と県民生活
    二 占領下の県民生活
      敗戦と食糧危機
 一九四五年(昭和二〇)八月の敗戦により、日本は歴史上はじめて外国軍による占領をうけ政治的にも社会的にもさまざまな変革を経験することになるが、多くの人びとにとっては日々どのように食糧を得て生きていくかが最大の関心事であった。極度の食糧不足が人びとの生活を圧迫していたのである。
 食糧については、四二年に「国民最少限」(national minimum)を保障する目的で「食糧管理法」が制定され、食糧営団による配給機構の一元化が行われていた。これにより生産者は、自家保有分をのぞいたいっさいの主要食糧(米・麦・いもなど)を強制的に政府に買い上げられ(供出)、消費者は配給通帳により配給業者からこれを購入し、価格もすべてが公定であった。やがて戦時中の食糧事情は極度に悪化し、四五年五月からは家庭配給基準量が成人一人一日につき二合三勺に統一され、しかも米・麦のみならず、いも・豆・雑穀などが多く混入されていた。さらに七月には、四五年産米の不作が予想されるにおよび配給基準量の一律一割節約が実施され、二合一勺(約二九七グラム、一〇四二カロリー)配給となった。こうして八月一五日、敗戦を迎えたのである。
 敗戦により旧植民地からの食糧移入が途絶し、くわえて悪天候と長期の戦争による農業生産力の低下は米の大減収をもたらし、福井県においても米の生産量は六一万石あまりと平年作の六割程度に落ち込んだ。他方、空襲による多くの疎開者と海外からの復員・引揚者が加わったため、県の人口は増加を続けた。とりわけ福井・敦賀両市が戦災をうけたこともあって大野・丹生郡など郡部農村への人口流入が著しく、戦時中にもまして「食糧危機」が強く叫ばれたのである。
 当時の厚生省栄養研究所では「日本人の平均体重のものは七分搗米で三・三合を必要」としており、さきの二合一勺配給では不十分きわまりないものであった(『食糧管理史』需給篇・総論)。配給の絶対量と質の低下により四六年一月ころには、一〇〇〇カロリーを割る状況であったという(『福井新聞』46・1・25)。農村の戦災疎開者に対する罹災証明事務の不備によって配給業務自体も混乱をきたしており、取扱当局の配給方法の違いによって配給量にも大きな差がでた。なかには食糧獲得のため、家族の大半を疎開させ、両地にそれぞれ全世帯員が居住するかにみせかけて二重配給をうけるという、市部における「幽霊市民」の存在も報道された(『福井新聞』45・9・30、10・6)。
写真44 無縁故罹災者の窮状

写真44 無縁故罹災者の窮状

 必要な食糧をまかなうために、たとえば坂井郡では浜四郷、新保の海浜砂丘を利用して甘藷栽培が行われ、また大野郡では山林の伐採跡地を焼畑し、そば、あわ、とうもろこしなどの雑穀の増産につとめた(『福井新聞』45・11・1、資12下 一九六)。しかし、このような生産活動だけでは食糧の絶対的不足を解消できようはずもなかった。したがって多くの人びとは統制外の高額な「ヤミ物資」によって生活を維持するしかなかったのである。市部には戦災浮浪者や孤児がふえ、また農村では野荒しや飯米どろぼう対策に、部落ごとに自警団をつくって警戒するところまであった(旧中名田村役場文書)。
 このような状況下、四五年一一月、武生町民大会、福井市議会などであいついで主食の三合配給断行を求める決議がなされ、同月滋賀県大津市で開催された全国町村長会でもこの問題が取り上げられた(『福井新聞』45・11・9、12)。翌一二月の県議会においても同様な決議がなされ、貴衆両院および関係各方面へ陳情したが状況は好転せず、四六年七月の端境期になると各地方食糧営団の保有米は底をつきはじめた。大野郡大野町・勝山町、遠敷郡小浜町ほかで欠配がはじまると、県でも緊急供出割当量一万石を目標とした「危機突破対策」を策定、各地方事務所や農業会支部をはじめ青少年団、婦人会など、関係者による農家の戸別訪問によって「農家の同胞愛を振起し自発的供出を懇請」した(資12下 二〇六)。しかし、これは各農家に対する実質的強制であり、なかには保有米を割り込んで捻出した者も多かった。還元配給をあてにして根こそぎ供出したものの、それすら反故にされ転落した農家もあった(『福井新聞』46・7・13)。これら農家の努力と、総司令部による旧日本軍の貯蔵食糧放出ならびに緊急食糧輸入によって、ようやく人びとは新米穀年度へと食いつないだのである。



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