敗戦による軍の解体にともない、戦時色を払拭するため直接に軍事にかかわる諸法令は廃止されることになった。軍需会社の指定は、一九四五年(昭和二〇)八月一五日にただちに取り消され民間への軍需品発注は打ち切られたが、敗戦前の軍需品納入契約の始末や、軍需工場労働者・軍人への退職金の支給などによって、臨時軍事費の支出が急激に増大した。戦後インフレは、生産力の極度の低下による物資需給のアンバランスと前述の食糧不足、さらには生活苦からの預貯金の引出しなどが重なって、いっそう激化したのである。四五年六月の日銀券発行高は二六〇億円あまりであるが、一〇月には四三〇億円、さらに一二月には五五四億円と、わずか半年の間にその発行高は倍以上にもなっており、通貨膨張の異常さを示している(『日本銀行百年史』資料編)。
戦時中政府にあらゆる統制権限をあたえた「国家総動員法」が、四五年一二月に廃止されたことにより、物資統制の根拠法規となっていた「物資統制令」も廃止された。しかし前述のような混乱した社会情勢下にあって、「終戦後ノ事態ニ対処シ国民生活ノ維持及安定ヲ図ル為特ニ必要アルトキハ」としたうえで、同法にもとづく諸規則の廃止は、翌四六年九月三〇日まで延期された。
当時政府には、価格統制を撤廃することで物資の出回りが促進されるだろうとの考えもあり、また、戦時統制の解除や自由経済復帰を望む一般の風潮もあって、一部統制解除の方針をとった。すなわち四五年一一月二〇日の「青果物配給統制規則」の廃止、および「水産物配給統制規則」の改正による鮮魚介の統制廃止がそれである。
総司令部は、四五年九月に「日本政府は賃金及び必需品の価格について確固たる統制を設定しかつ維持すべき責任を負うこと」と統制の維持を指示していたが、一一月一五日の「覚書」によって右の統制廃止を許可した。しかし政府の思惑とはうらはらに、供給量の絶対的不足から需給の不均衡はますます大きくなり、インフレに拍車がかかることとなった(『通商産業政策史』2)。
福井県での鮮魚介を例にとってみよう。その集荷、配給など流通全般を担当している県水産会では、県の方針により一一月五日に公定価格の二倍から三倍の「協定価格」を設定し、各漁協からの集荷促進をはかりつつ協定価格での集荷・配給業務を継続する予定であった。しかし新聞発表等で完全自由販売だと誤解する漁業者が多く、そこに関西方面からの買付人やブローカーが殺到し高値で買い占めてしまう。それではやっていけない県内小売業者も直接浜元へ高値で買付けねばならず、その結果配給用の集荷は皆無、法外な高値物が店頭にならぶ結果となった。福井市の日ノ出公設市場跡には一五〇店あまりの露店商が立ち並ぶヤミ市ができ、最高協定価格の四倍から一〇倍の鮮魚が飛ぶように売れたという(『福井新聞』45・11・29)。ヤミ価格を抑制しようとすれば、商品の出回りを悪くし、また放任することは価格の吊上げにもつながるとして、たとえば武生警察署ではある程度抑制したヤミ価格表を業者に提示し、ヤミを黙認せざるをえなかった。当時の『福井新聞』はこれを「出廻り促進の親心」、「武生署の英断」だと評価している(『福井新聞』45・11・25)。 |