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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第三節 空襲と敗戦
    一 本土決戦体制
      国民義勇隊の結成
 一九四五年(昭和二〇)一月二〇日の「帝国陸海軍作戦大綱」は同年秋ごろにアメリカ軍が本土に上陸するものと予想し、二四〇万人の防衛軍を急速に編成して、最後の決戦を本土で行おうとする計画であった(藤原彰『日本近代史』3)。そして全国民の軍隊化ともいうべき国民義勇隊の編成が三月二六日の閣議で決定された。義勇隊は当面は防空、食糧増産などに出動するが、情勢の急迫によっては本土決戦のさいの戦闘組織としての役割を担うことが予期されていた。沖縄戦での戦局が急を告げる五月二二日、福井県では国民義勇隊組織運用の要綱が決められ、県に宮田笑内知事を長とする義勇隊本部がつくられ、市町村には市町村長を長とする義勇隊が編成されることとなった。市町村国民義勇隊は町内会・部落会を、職域国民義勇隊は官公署・工場・会社などを、それぞれ単位小隊とし、その上に地方事務所ごとの前記二つの義勇隊を合体した連合国民義勇隊があった(資12上 二四九)。国民義勇隊の要綱では県や市町村の義勇隊の幹部の委嘱や任命は県本部長や市町村隊長の判断にまかされていたが、実際に義勇隊が編成されていく過程で、幹部には多くの場合在郷軍人が委嘱・任命されていった。たとえば県本部では予備役の森永武雄陸軍少将(吉田郡岡保村)が副本部長に、福井連隊区司令官儀峨徹二中将が顧問にあてられ、福井市では村野二三男陸軍少将が、敦賀市では木下一英郷軍連合分会長がそれぞれ副隊長に選ばれていた(『福井新聞』45・5・23、6・19、20)。それは戦闘隊転移の場合における指揮官要員として委嘱・任命されたものといえるであろう。県義勇隊の副本部長に就任した森永少将は、就任の決意のなかで「一度び情勢が急迫すれば直ちに戦闘隊に転移し軍の作戦が求むる各種の兵站的業務に服することが任務である」と述べている(『福井新聞』45・5・24)。
 福井県下における国民義勇隊の結成は順調に進み、六月二二日現在で八連合隊ならびに一七八市町村隊の結成を終え、一部残った連合隊も七月八日までに結成される見通しであることが新聞に報道されている(『福井新聞』45・6・23)。
写真39 松岡町国民義勇隊

写真39 松岡町国民義勇隊

 国民を戦闘組織に編入するため、「義勇兵役法」が制定され、六月二二日に公布された。一五歳から六〇歳の男子、一七歳から四〇歳の女子と、ほとんどの国民を兵役に服させる道が開かれたのである。また義勇兵役法をうけて翌日に「国民義勇戦闘隊統率令」も制定され、義勇戦闘隊は完全に軍の統率下に組み入れられることとなった。義勇兵役法実施に関する近畿、東海、北陸地区軍官関係者打合せ会では、義勇戦闘隊の敢闘目標として、最少限「一人一殺」が指示され、訓練が求められた(『福井新聞』45・6・30)。しかし、県民の戦意の燃えあがりはほとんどみられなかった。それは戦局の悪化もさることながら、生活そのものが崩壊に瀕していたことが大きな原因であった。もし本土決戦が実際に戦われていたらどうなったであろう。沖縄では戦闘の足手まといだとして守備隊によって集団自殺を強要されたり、スパイの容疑をかけられて斬殺された島民が多かったことが明らかにされている。本土決戦では沖縄の悲劇が大規模に再現される恐れが多分にあったのである(藤原彰『太平洋戦争史論』)。国民義勇隊の編成は「一億玉砕」のスローガンどおり、国民を皆殺しにする国民動員体制の極限の形態であった。



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