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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第三節 空襲と敗戦
    一 本土決戦体制
      軍需工場の労働実態
 福井県下の軍需工場は、企業整備により繊維工場から航空機部品製造などの下請工場に転換したものが大半であった。これらの工場で働く工員や動員学徒・女子挺身隊員らはどのような環境に閉ざされていたのであろうか。
 戦局が悪化すると福井県は、一九四四年(昭和一九)末に各部長を班長とする「軍需生産増強指導本部」を組織し、各工場を査察したり現地懇談会を開いて隘路の打開に取り組んだ。懇談会で出される「現場の声」は、生産面では技術力の不足、原資材・副資材の不足であり、労務面では窮迫する食糧事情に対する不平不満であった(『福井新聞』45・1・27)。海上交通の途絶、国内交通網の寸断、食糧の欠乏と悪条件が重なり、生産力はすでに破局寸前の状況に陥っていたのである。しかし、軍・政府・県は工員や動員学徒に生産戦士として「職場死守」を求めた。その第一弾は長期欠勤者の摘発であった。四月に入ると、各保健所は工場主に毎月末に長期欠勤者名簿(罹病申告票)の提出を求めた。重病者については保健所員が家庭訪問し、軽症者については出頭を求め検診するしくみであった。正当の理由がなく出頭を拒む者には警察署が相当の措置を講ずることになっていた(『福井新聞』45・4・18)。保健所・警察署の監視によって仮病欠勤者を一掃しようとするもので、軍需工場は工場監獄的性格を表わしてきたのである。
 この監視によって勝山保健所管内では三八%の仮病による長期欠勤者が発見されている(『福井新聞』45・4・12)。しかしこの監視も、長期欠勤者を解消する決め手とはならなかった。福井保健所管内では保健所に出頭しない軽症者が約六割あり、また長期欠勤者名簿を提出しない工場が三分の一にのぼっていた(『福井新聞』45・4・18)。実質賃金は全国統計で三九年を一〇〇とすると、四五年には四四に暴落していた。労働時間は一日一二時間以内、毎月二回以上の休日という「工場就業時間制限令」もすでに四三年に撤廃されていた(金原左門・竹前栄治『昭和史』)。そこへ、ご飯粒が数えられるほどの雑炊給食など、劣悪な食糧事情が加わり、生活破壊から仮病をかたる長期欠勤がまん延したものとみられる。それは自然発生的なサボタージュであったといえよう。
 六月に入ると、福井県は第二弾として、警察力を背景に「弛緩工場」の一掃に乗りだした。「職場死守の信念に燃えて敢闘している工場は三分の一で、三分の二はゴロゴロしているだけである」と分析し、警察の協力を得て模範工場を設定するとともに、能率の悪い工場に県労政課長が出向いて活を入れ、模範工場に右へならえさせようというものであった(『福井新聞』45・6・20)。しかしこれも、みるほどの効果はあがらなかった。



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