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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第三節 空襲と敗戦
    一 本土決戦体制
      地下工廠建設への動員
 一九四四年(昭和一九)一〇月のレイテ沖海戦で連合艦隊は、戦艦、巡洋艦、航空母艦の大部分を失い潰滅状況になった。仏領インドシナ沿岸までがアメリカ軍の制空権下に入り、南方との海上交通は途絶した。四五年一月にベトナム南部のキノン湾沖で、本土向けの石油など重要物資を満載した一〇隻の輸送船団が、六隻の護衛艦に護られながら、敵機の攻撃をうけて全滅するという被害をうけ、以後船団の輸送は不可能となった。それは戦争遂行能力が崩壊したことを意味した。アメリカ軍は占領したマリアナの航空基地を整備し、二月以降、その開発した長距離爆撃機B―29による本土爆撃を強化してきた。三月九日の東京大空襲は下町を焼きつくし、死者八万三〇〇〇人という被害がでた。焼夷弾のじゅうたん爆撃の威力をまざまざとみせつけた(藤原彰『太平洋戦争史論』)。
 四四年九月以降福井県下への集団学童疎開がはじまり、大阪市内の各国民学校から約三〇〇〇人が各市町村の寺院などに疎開していた(『福井空襲史』)。本土空襲が激しくなった四五年春以降は、大阪、東京などからの縁故疎開者もふえ、緊迫した戦局の実態が県民に伝わっていった。一月下旬の「決戦非常措置要綱」にもとづいて本土決戦にむけた人と物の根こそぎ動員がはじまり、徴用工・学徒・女子挺身隊員らは県内外の軍需工場で航空機・同部品などの生産増強に励んだ。国民学校の高等科生らも農村援兵として食糧増産にかりだされた。また各市町村では、人びとは老人、婦女子を問わず竹やり訓練・防空壕掘り・松根掘り・松根油作り・ヒマ栽培・金属回収などに勤労奉仕隊として連日のように動員された。根こそぎ動員の典型となったのは舞鶴海軍工廠の地下工場建設であった。
 同工廠では施設を空襲から守るため四四年末に福井市の足羽山の地下に工場疎開することを決めた。軍の機密事項であったため記録は残されていないが、関係者の証言や福井新聞社発行の『生きているふくい昭和史』下、それに、当時の新聞報道を手がかりに検討すると大要はつぎのようである。
 四五年はじめから先遣隊による測量にもとづいて小森部隊が笏谷採石場(石切り場)を中心にさらに奥深く掘って「福井第五五工場」などをつくった。工場数は不明であるが、六月にはまだ突貫工事は続けられていた。基礎工事には技能のすぐれた大工、石工、鳶職、坑夫、土工が選抜配置され、つづいて各町内、職場の勤労奉仕隊や動員学徒、予科練生たちが連日約一〇〇〇人動員されて掘った土石の運搬にあたった。刑務所の服役者も一〇〇人くらいずつ出動していたらしい。また工場には事務を手伝う女子挺身隊員約二〇人が働いていた。なお町内会の勤労報国隊員を引率して入坑した福井市の書記が六月四日に深さ二〇メートルの縦坑に墜落して殉死している。



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