一九四四年(昭和一九)七月のマリアナ失陥は戦局に重大な影響をあたえた。日本本土の主要都市の大部分が当時最新鋭の超重爆撃機(Very
Heavy Bomber:VHB)B―29の行動半径に入ることになったからである。統合参謀本部(Joint
Chiefs of Staff:JCS)直属の戦略空軍として四四年四月に編成された第二〇航空軍はマリアナの基地が整備されるやいなや即座に主力をこの方面に展開し、日本本土に対する激しい空爆をはじめた。さらに、四五年三月には硫黄島も落ち、直掩戦闘機部隊の基地や爆撃機部隊の中継基地として運用され、本土空襲はますます激しくなった。
敦賀市や福井市が空襲されるころには爆撃機部隊の攻撃法はほぼ確立されていた。日本の都市は焼夷弾攻撃に弱いので汎用弾による高高度爆撃をする必要がなく、また、日本の高射砲や航空機による反撃も微弱であったため、レーダー爆撃の可能な高度まで爆撃高度を低くとっても大丈夫であることがわかっていた。そこで、夜間レーダー爆撃を行うべく低高度で進入し焼夷弾攻撃を行ったのである。また、このころには搭乗員の練度もあがり洋上航法やレーダー爆撃も単機で行えるようになっており、空中集合も編隊飛行も行っていない。ただ、攻撃隊主力に先行してこれを導く技量のより高い搭乗員による先導機が一二機前後選ばれており、これには一〇〇ポンド焼夷弾を搭載した。目標に先着した先導機が投下するこの焼夷弾は大きく燃え上がり初期消火を妨げ火災をおこす。視界がよければその火災をめがけて後続の攻撃隊主力が六ポンド小型焼夷弾を束にした五〇〇ポンド集束弾もしくは一〇〇ポンド焼夷弾を投下するのである。なお、空軍部隊の編成や爆撃機の航法等については資料編12上付録「作戦任務報告書」につけた解説「福井、敦賀の爆撃について」を参照していただきたい(資12上 「付録」、The
Twentieth AirForce,A Brief Summary of B―29
Strategic Air Operation,5 June 1944―14 August
1945)。 |