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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第三節 空襲と敗戦
    二 敦賀・福井空襲と敗戦
      敦賀空襲
 一九四四年(昭和一九)七月のマリアナ失陥は戦局に重大な影響をあたえた。日本本土の主要都市の大部分が当時最新鋭の超重爆撃機(Very Heavy Bomber:VHB)B―29の行動半径に入ることになったからである。統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff:JCS)直属の戦略空軍として四四年四月に編成された第二〇航空軍はマリアナの基地が整備されるやいなや即座に主力をこの方面に展開し、日本本土に対する激しい空爆をはじめた。さらに、四五年三月には硫黄島も落ち、直掩戦闘機部隊の基地や爆撃機部隊の中継基地として運用され、本土空襲はますます激しくなった。
  敦賀市や福井市が空襲されるころには爆撃機部隊の攻撃法はほぼ確立されていた。日本の都市は焼夷弾攻撃に弱いので汎用弾による高高度爆撃をする必要がなく、また、日本の高射砲や航空機による反撃も微弱であったため、レーダー爆撃の可能な高度まで爆撃高度を低くとっても大丈夫であることがわかっていた。そこで、夜間レーダー爆撃を行うべく低高度で進入し焼夷弾攻撃を行ったのである。また、このころには搭乗員の練度もあがり洋上航法やレーダー爆撃も単機で行えるようになっており、空中集合も編隊飛行も行っていない。ただ、攻撃隊主力に先行してこれを導く技量のより高い搭乗員による先導機が一二機前後選ばれており、これには一〇〇ポンド焼夷弾を搭載した。目標に先着した先導機が投下するこの焼夷弾は大きく燃え上がり初期消火を妨げ火災をおこす。視界がよければその火災をめがけて後続の攻撃隊主力が六ポンド小型焼夷弾を束にした五〇〇ポンド集束弾もしくは一〇〇ポンド焼夷弾を投下するのである。なお、空軍部隊の編成や爆撃機の航法等については資料編12上付録「作戦任務報告書」につけた解説「福井、敦賀の爆撃について」を参照していただきたい(資12上 「付録」、The Twentieth AirForce,A Brief Summary of B―29 Strategic Air Operation,5 June 1944―14 August 1945)。
写真40 敦賀空襲

写真40 敦賀空襲

 敦賀市がこのマリアナからの部隊による爆撃をうけたのは、第二〇航空軍の作戦任務報告書(Tactical Mission Report)によれば、四五年七月一二日の午後一一時〇分より一三日の午前一時七分にかけてであった。この約二時間に、第三一三航空団(Bombardment Wing)所属の三個航空群(Group)の九二機が、高度一万二二〇〇〜一万三四〇〇フィートよりAN―M47A2一〇〇ポンド焼夷弾五八六〇発、二〇二・一トンとE―46五〇〇ポンド集束焼夷弾二三八五発、四七七・〇トンが投下された。この部隊は一二日の夕刻(日本時刻)、ティニアン島を飛び立って硫黄島上空を通過し、三重県の猪ノ鼻と呼ばれる岬を目標に陸地に入った。そこから変針して琵琶湖の沖島をめざし、ここを爆撃航法に入る進入点として、ここで再度変針して敦賀市に飛来するというコースをとったものである。敦賀市への侵攻方向は三五五度から三五一度と報告されているから、ほぼ真南から真北へ抜けるコースをとったといえる。投弾後は右旋回して離脱し、鈴鹿付近より洋上に出た。
 この出撃においては敦賀市上空は密雲におおわれ、まったく視認できない状況で先導機はもちろん、後続の部隊もほとんどすべてがレーダー爆撃を行った。米軍の評価によると市街地の損壊率は六八%で、のちの福井市の八四・八%に比べて劣るのは航空団の練度もあるかもしれないが、主としてこの天候のせいであろう。爆撃機があたかも小さな集落をめがけて蛇行した航路をとって爆撃したかのように語っているものもあるが、それはおそらく間違いで、天候のせいで地上からの視認が困難で、各所で爆音を聞いた証言がありそれを無理矢理つないで解釈しようとしたせいであろう(XXI Bomber Command,"TacticalMission Report,Mission No.265")。



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