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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    三 日中戦争期の繊維産業
      人絹織物団体リンク制の成立
 一九三七年(昭和一二)一月以降、国際収支の均衡をはかるために「為替管理法」による輸入為替許可制が綿花・羊毛について行われていたが、日中戦争開始後には「輸出入品等臨時措置法」(三七年九月)により綿花・羊毛の輸入制限は強化された。しかし、繊維原料輸入の抑制により繊維製品輸出も振るわず、三八年には輸出振興・外貨獲得・国内消費抑制を果たすために羊毛輸出入リンク制(三八年三月)、綿業輸出入リンク制(三八年七月)が実施され、第三国向け輸出と原料輸入をリンクさせる統制方式が行われるようになった(『商工政策史』16)。
 人絹は、原料のパルプを輸入に依存していたので、商工省は、三八年六月に人絹連合会(人絹連)と人工連に人絹パルプと輸出人絹糸、人絹織物のリンク制の立案を命じた(『福井新聞』38・6・26)。七月はじめには方針がまとまり、商工省が上記二団体に加え、輸連・日本輸出絹人絹商業組合連合会(商連)・人絹糸元売業組合など関係団体を招き、人絹リンク制案骨子を説明し、細目については人絹連・人工連・輸連・商連より特別委員を出し協議することとした(『福井新聞』38・7・3、8)。
 福井では、人絹輸出入リンク制の導入は山田県人工連理事長が「人絹の輸出振興策のため輸出織物は自由生産し自由に輸出が出来ることとなった。一方内地向は満支向を含んで生産統制を強化することになったのである」と説明したように、輸出向け人絹織物の生産統制の解除とうけとめられ歓迎された(『福井新聞』38・7・10)。
 三八年七月二一日には商工省が「人造絹織物ノ輸出振興方策要綱」「人造絹織物ノ輸出振興方策細目」を定めた。これによると、まず、人絹織物を「(イ)純輸出物、(ロ)満支物、(ハ)内地物(朝鮮物ヲ含ム)」に区分する。純輸出物はこれを特殊品・普通品に分け、特殊品は自由に受注させ、普通品は月四〇〇万ポンドの糸量から特殊品・絹交織用を差し引いた糸量に見合う数量とし、過去の組合別実績により組合員に割り当て、「義務的ニ生産セシメタル上人工連之ヲ買取リ」販売する。ただし、当分の間は特殊品に準じ自由受注を認めるという。純輸出物は検査不合格の場合、必ず代物を提供しなければならない。すなわち、普通品は注文がなくて人工連が買い取るので機業家は安心して生産できるわけである。満支物、内地物は実績による割当制をとることとされた。輸出用人絹糸はすべて人工連が人絹連から共同購入し(「協定糸」と呼ばれた)、価格は「協定価格」とされた。リンクの主体が人工連などの団体であるので「団体リンク制」と称された(人工連『人絹リンク制の解説』)。人絹会社を主体とする人絹糸の個人リンク制は八月から、人絹織物の団体リンク制は一〇月から実施された。
写真36 福井機業製品高級輸出リンク組合の設立

写真36 福井機業製品高級輸出リンク組合の設立

 しかし、人絹糸のリンク制がはじまるやいなや、福井産地は極度の糸不足に襲われたのである。リンク制に先立つ七月二五日、「人絹糸販売価格取締規則」により人絹糸にも公定価格が適用された(『福井新聞』38・8・12)。これは、人絹連の操短拡張による市価高騰に対処すべく人工連側から提唱したことだった(『福井新聞』38・6・5)。しかし、九〇円という最高価格が設定されると、思惑筋が最高価格への接近を予想して安物を売り惜しみ、産地では原糸不足をきたしたのである。八月には県人工連役員と西野商店、塚島商店、丸紅商店、酒井商店などの特約商が会合したが、西野商店の岡田人絹部主任は「今後は操短率の強化とリンク制により予想外の荷かすれを見ることにならう」と悲観的見通しを述べた(『福井新聞』38・8・4)。
 一〇月に人絹織物リンク制が実施された後も、協定糸不足が生じ、福井駅から他地域へ「逆送」される人絹糸は六月までは三〇〇トンから四〇〇トンであったが、七月以降七〇〇トンから八〇〇トンにものぼることが判明した(『福井新聞』38・11・13)。
 機業家は、原糸不足に直面しあらたな対応に迫られた。従来から統制改善の声を上げていた福井市第二部(市の西側)の藤川喜太郎、内田清、土田幸作らの機業家たちは、人絹糸共同購入・製品共同販売を目的とした共販会社設立にむけて動きだし、この動きは福井市部全体に広がり、福井組合からの福井市部独立問題へと展開した(『福井新聞』38・8・28、30、9・8)。大野の機業家三〇余名で組織する人絹ジョゼット生産者会も九月より共同購入・共同販売を行うことを決め(『福井新聞』38・9・1)、福井組合の黒川智照らは江商の賃織を行う福井機業製品高級輸出リンク組合を設立した(『福井新聞』38・12・6)。このように、工業組合よりもさらに小さな単位で機業家が結合する動きは、リンク制実施とともに広がり、のちの「ブロック」へと発展するのである。
 一方、人絹糸を扱う商人も、公定価格・リンク制により打撃をうけた。福井市内の数百名にのぼる人絹ブローカーは失職し、中国大陸へ渡ったり事務職、商店員、農業に転職したといわれる(『福井新聞』38・8・29)。また、九月に人絹特約店からなる日本人造絹糸元売商業組合が結成され、一〇月に商工省が人絹糸の取扱いを元売商に限る方針を明らかにすると、福井人絹卸売商業組合から特約店一二名が脱退した(『福井新聞』38・10・16)。その後商工省の指導により元売・卸売両組織の合同がはかられ、三九年五月に日本人造絹糸元卸商業組合が結成された(人工連『人絹』39・6、9)。
 三八年下半期から三九年上半期にかけて協定糸供給は不円滑だったので、機業家は割高な市中の一般糸を補充し純輸出物を製織した。一方、満支物は活況を呈した(協調会『事変下の中小工業(其の一)』)。福井県の人絹織物生産高は、三八年八月以降は毎月前年同月実績を上回り、一〇月から一二月の合計では三一・六%が満支物、二七・五%が純輸出物、二〇・五%が朝鮮物、二〇・四%が内地物という構成となり、従来よりも円ブロック向けの割合が大きくなっている(『昭和一四年版人絹年鑑』)。三九年二月より協定糸査定委員会が設置され、人工連の申請量と人絹連の供給可能量を調整し、人絹連から人工連に一万函多く供給させることとなった(『昭和一五年版人絹年鑑』)。しかし、月六万函から七万函の協定糸が供給されたにもかかわらず純輸出はふえず、内地流入、円ブロックへの流出が四割程度あることが推測され、各団体が罰則などの法的権限を有さないことが弱点だとされた(『福井新聞』39・8・17、20)。このような問題点は団体リンク制の改革を必至のものとしたのである。



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