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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    三 日中戦争期の繊維産業
      日中戦争の勃発と統制の見直し
 一九三七年(昭和一二)七月七日の盧溝橋事件を機に、日中両国は全面戦争に突入した。これにより対中国貿易は杜絶し、人絹織物価格は暴落し、日貨ボイコットも激化した。もともと人絹織物輸出市場として大きな地位を占めていなかった中国市場が、三七年上半期には輸出人絹織物の約二二%にまで拡大した矢先のできごとだった。日中戦争を機に機業家への先約定の破棄・受渡延期が続出した。福井は、満州・北支向けが相対的に多く、生産統制の矛盾から滞貨がふえていたのに加え、満州向けの紋織の取引中止、北支向け平地の注文解約となり、中小機業家は休業を余儀なくされたのである(『昭和一三年版人絹年鑑』)。
 福井県下の人絹織物生産価額は、三六年一〇月より毎月一〇〇〇万円をこえ、三七年一月から六月までは一二〇〇万円から一三〇〇万円を記録していた。ところが、日中戦争の開始後八月には七〇〇万円台、九月以後は六〇〇万円台に激減したのである(資17 第387表)。第一章第四節一の図24によると福井組合銀行倉庫における人絹織物在荷は三七年下半期をピークに、人絹糸在荷は三七年下半期から三八年初頭にかけて急増したことがわかる。
 人絹織物滞貨は三七年八月末には全国で四〇〇万反にのぼり、大幅な操業短縮が求められた。人工連、日本絹人絹糸布輸出組合連合会(輸連)は、滞貨対策と休機補償について協議を開始した。当初、人工連・輸連がそれぞれ剰余金・積立金により滞貨を買い上げ共同保管し、人絹織物一反につき三〇銭から四〇銭の休機補償を行う案が検討されたが、輸連内部の意見がまとまらず、物別れとなった(『福井新聞』37・9・4、9、15)。その結果、人工連が独自に剰余金を用い、一反平均三〇銭の休機補償を、一〇月・一一月分について行うこととなった。福井県下一〇組合の補償申請は五六五名、一〇万五七一三反、金額にして三万一七一三円であった(『福井新聞』37・9・16、11・3)。
 九月二七日に行われた福井組合総会は、品種の自由転換、操短・休業のさいの実績一〇割保留、休機補償などをめぐる要求が噴出した。また、二〇〇反以下の小機業家に特別に品種の自由転換を認めよとの要求も出され、議事は紛糾し警官隊が出動するにいたった(『福井新聞』37・9・28)。一〇月には福井組合内部の福井市部選出代議員らが主体となって人絹織物統制改善期成同盟会が結成され、一〇月二五日の第一回委員会で座長に姉崎弥太郎を選出し、「実績と品種別統制、此悪税制法のために吾等業者は今日如何に塗炭の苦しみに藻掻き居る事か……」との檄文を発表した(『福井新聞』37・10・26)。
 操短のさいの実績一〇割保留は人工連でも検討されたが、商工省は、あくまでも反対した。人絹織物統制期成同盟会は上京して、人工連への陳情をくり広げ、ついに一一月一五日の人工連理事会は(1)事変中は品種別の生産統制を中止して輸移出人造絹織物の総数について割当をすること、(2)超過の限度を割当数量の四割までとすること、(3)事変中は生産総数量の決定を二か月前にすること、(4)事変中は比率を総会の決議により定めることに決定した。
 福井側がねばり強く要求した品種別統制撤廃がみとめられ、従来二割であった超過生産が四割まで認められ、生産総数量の決定も三か月前から二か月前に短縮されたのである。山田仙之助県人工連理事長は「不況対策については県連から日連(人工連)に対し強硬に要望してあったので日連当局も吾々の要求と時勢の急迫に進んで打開策を講ぜねばならなくなったわけである」と語った(『福井新聞』37・11・18)。人絹織物統制改善期成同盟会も要求がとおったことで気勢をあげ、さらに超過生産手数料・統制手数料の半減などの要求を掲げて運動を継続した。
 ところが、人工連の統制見直しの決定には一〇割保留が含まれていないことが判明し、県人工連では、これが認められない場合には人工連からの脱退をも辞さぬとの強い姿勢で交渉をくり返した。こうした情勢下、一二月二日福井県主催の織物不況対策懇談会が商工省から佐藤参与官、久保事務官を迎えて行われた。業者側は約五〇名が出席し、樅山次良作(県織物同業組合第二部長、人絹織物統制改善期成同盟会)は「この不況におちいったと云ふ原因はとりも直さず十中の八九分までは統制の欠陥に基くものである」と非難し、実績にもとづく生産割当のために採算を無視して「犠牲生産」を余儀なくされていること、工場担保の金融が実績が少ないことを理由にうけられなくなったことなどを訴えた。このほか人絹織物統制改善期成同盟会メンバーの発言があいつぎ、商工省側は善処を約束した(『福井新聞』37・12・4、12)。その後、人工連から一〇割保留は統制の原則上明記できないが、応召・その他の事故、あるいは品種転換により生産減となった場合、必ずしも割当を減らさない旨の通知があり、部分的に実現することとなった(『福井新聞』37・12・14)。
 三八年にも統制改善の声はやまず、人工連は傘下各組合に機構改善要望案を募った。福井県下の各組合は、超過生産手数料・統制手数料の半減、操短時の実績一〇割保留などを求めたが、福井組合はこれらに加えて人工連名誉理事長に商工省工務局長をあてること、会議に商工省・企画院・内務省社会局官吏を臨席させることなど官僚統制を強めることを要求していた(『福井新聞』38・2・4、13、15)。しかし、人工連は、各産地からの改善要求を具体化することはできず、三八年五月の総会において機構改革・統制方針に関する臨時委員会の中間報告を行うにとどまった(『福井新聞』38・5・29)。統制の抜本的改革は商工省から投げかけられることになるのである。



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