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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    三 日中戦争期の繊維産業
      人絹織物生産統制の問題点
 一九三六年(昭和一一)一〇月から開始された日本輸出人造絹織物工業組合連合会(人工連)による生産統制は、実施直後からさまざまな問題点を露呈した。まず第一は、品種別数量統制であったことである。人工連は、輸出人絹織物を八品種に分類し、品種ごとに割当数量を定めた。その八品種とは、第一種一平(人平、レヨパール)、第二種二平(平パレス、平塩瀬)、第三種紋織、第四種朱子、第五種ボイル、第六種縮緬、第七種壁、第八種その他特殊物とされていた。第八種には多種多様な織物が含まれ、(イ)から(ト)まで細分類されていた。当時、人絹織物は高級化の過程にあり、あらたな「変り物」も続々と現われた。これらが八種の品種分類に制約され、数量が限定されることは高級変り物の発展を抑えるものと考えられた(『福井県繊維産業史』)。また、一度ある品種の生産を割り当てられると、その後の需要の変化に機敏に対応できなくなるという問題があった。
 福井県下の人絹織物工業組合の連合体である県人工連は、三七年三月の役員会において一か月二〇〇反を限度として生産品種の自由転換を認めることを人工連に要求し、かつ統制品種の分類改正案をまとめている(『福井新聞』37・3・17、18)。しかし、その後の人工連統制委員会では品種の自由転換は却下され、品種分類改訂案は各組合の案が出されたものの異論百出しまとまらなかった(『福井新聞』37・3・21)。七月の総会において品種は一一分類に改訂され、需要が減退している品種と伸びている品種との区別をより明確にした。しかし、品種別統制は堅持され、自由転換は認めなかったのである(『福井新聞』37・7・8、9)。
 第二の問題は、休業・操業短縮による生産減の取扱いである。三七年上半期に輸出不振・滞貨増が続き、各産地で同盟休業が行われたが、生産実績が減ると次期の割当数量が減ってしまう。これを回避するために、休業・操短による減産はその一〇割を生産実績とみなすべきだとの要求がまきおこった。人工連では、六月の操短のさいには減産分の八割を実績とみなすこととした(『福井新聞』37・6・2、5)。六月二三日に行われた総会には、吉田、福井などの県下人絹織物工業組合員約三〇名が上京し、オブザーバーとして統制の改革要求をつきつけたが、減産による実績保留は五割に引き下げられた(『福井新聞』37・6・26)。これについて来福した大久保基吉人工連専務理事は、八割から一〇割保留となれば一度割り当てられた数量は永久的な割当となり、自由生産と変わらなくなるからだと説明した(『福井新聞』37・7・4)。
 福井県下では、一〇組合のうち、とくに福井輸出人造絹織物工業組合(福井市、足羽郡、吉田・丹生郡の一部、以下福井組合)が組合員数一〇〇〇名を擁し、しかもその多くが小機業家であり、生産統制への批判が強く出されたのである。三七年三月には福井組合小機業家有志が「福井県機業同志会」を結成しようとする動きがある(『福井新聞』37・3・3、16)。当時の土田幸作理事長は機業同志会と提携したのに対し、これに反発する上田鶴次ら反理事長派は機業親睦会を結成し、同業組合の組織単位である部制の尊重を主張し、福井組合内部の対立抗争に発展した(『福井新聞』37・6・16、17)。
 その後福井県下各組合は福井組合を筆頭に統制をめぐり人工連への批判を強め、統制改革の運動を展開していくことになるのである。



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