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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    三 日中戦争期の繊維産業
      人絹織物の個人リンク制への改編
 一九三九年(昭和一四)九月にヨーロッパで第二次世界大戦がはじまった。これを機に人絹連は協定糸の八ポンドあたり一八円の値上げを提起した。しかし、既約定分については商工省の裁定により三円値上げに抑えられたが、一二月渡し分につき再度人絹連は一〇円値上げを提起した。人絹連としては、ヨーロッパでの戦争により人絹糸の引合がふえ、あえて安い協定糸を供給する必要がないこと、国内の電力・労働力不足により操業が困難であることが理由であった。一方、人工連は織物の海外引合状況からみて五円値上げが妥当だとして両者ともに譲らなかった(『福井新聞』39・9・10、22)。人絹連・人工連の協定価格をめぐる協議は対立したままで、とりわけ人絹連は商工省裁定に持ち込むことを拒絶し(『福井新聞』39・9・29)、事態は輸連、商連も巻き込んだ団体リンク制再検討へと進展した。一〇月に行われた二度の関係団体協議では一二月分の値上げ幅とリンク制改革案が議論され、人絹連と輸連は個人リンク制への改革を主張した(『福井新聞』39・10・27)。
 福井の機業家は、人工連傘下の各組合同様、あくまでも団体リンク制擁護の立場にたった。個人リンク制が導入されれば指定工場との契約となり、中小機業家が排除されることを危惧したからである。中小機業家擁護の運動をくり広げていた福井県機業同志会は、リンク制改革について輸出振興に積極的であること、中小機業家の経営を向上させること、人絹連・人工連・輸連・商連の各団体が平等に利益・犠牲を負担することという三原則を提唱し(『福井新聞』39・10・15、17)、県下各組合からの上京・陳情も行われた。
写真37 リンク制改革と中小機業

写真37 リンク制改革と中小機業

 しかし、協定糸の内地流入・円ブロック流出を防げず、協定価格決定が紛糾することで団体リンク制の限界は十分に証明されていた。ついに一〇月二七日の関係団体協議において個人リンク制に転換することが決定された。その骨子はつぎのとおりであった(『福井新聞』39・10・29)。
  一、協定価格の廃止。今後は人絹会社(元売商を通じ)と機業家との直接取引をなす。
  一、商連の保有期間設定。
  一、商連内部に於ける売買の原則的禁止。個人リンク制は四〇年一月から実施された
     。
 さて、個人リンク制の導入に、福井産地では「機業家ブロック」を結成することで対処した。機業家ブロックには、「(イ)純然たる機業家のみのブロック、(ロ)問屋を中心とせるブロック、(ハ)糸商、織物商、機業家を一丸とせるもの、(ニ)工業組合の指導下に事務処理の簡易化を目指せるもの」の四つのタイプがあるという。このうち(ロ)のタイプが大多数を占めていた(資12上 七〇)。福井県下で機業家ブロックが発達した理由は、第一に工業組合の活動がとりわけ共同事業において不十分で、無防備のまま統制の渦中に放り込まれたこと、第二に個人リンク制により原糸は機業家の自由買付制となったので、信用・資力に欠ける中小機業家は買付難に陥ったこと、第三に個人リンク制により糸の転売を禁止された商連加盟問屋は、特約店との対抗上ブロック結成に走ったことなどが指摘されている(『人絹』40・1)。工業組合内に小組合をつくるという方針も提起されていたが、工業組合活動が不振だった福井には適さなかった。
 なお、内地向け織物については、三九年五月二五日に発足した繊維需給調整協議会(繊協)があらたな統制の担い手として登場した。繊協は、さきの綿需給調整協議会を改組したもので、綿・人絹・スフ・毛・麻の各工業組合連合会、商業組合、輸出組合、パルプ・綿花など原料の輸入統制団体を網羅し、会長には大日本紡績連合会長の津田信吾(鐘紡)が就任した。繊維種類別の工業組合では産地の糸需要に対応できなくなったために、各原糸を総合的に割り当てることとなった(『福井新聞』39・5・26)。繊協は従来の工業組合による生産実績にもとづく割当に代わり、一一月より織機台数に応じた設備主義による割当を行った。ただし、これにより人工連が独自に行っていた織機一〇台以下機業家への特別割当はなくなったのである(『人絹』40・1)。
 また、四〇年一月には「生糸配給統制規則」により人工連が生糸配給をうけ易くなり、絹人絹交織全盛時代を迎えた(『昭和一六年版人絹年鑑』)。たとえば今立郡神明村のある機業家は、四月物以降のリンク受注がなく、分工場の織機一二五台は休業し、本工場九八台で繊協割当(内地向け)や絹交織を製織していた。また武生町のある機業家は、織機は七割動き、生産は五割程度で、「皆昔羽二重の経験があるので人工連が生糸をうんと配給してほしい」と述べていた(『人絹』40・5)。
 福井県の織物生産価額をみると、三九年には人絹織物九二〇〇万円、絹人絹交織二三〇〇万円であったが、四〇年には人絹織物六二〇〇万円、絹人絹交織五五〇〇万円、四一年には人絹織物四五〇〇万円、絹人絹交織一億一〇〇万円と両者が逆転したのである(資17 第339表)。



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