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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    一 農業統制と農業団体
      米穀の流通統制
 戦時期以前には米が過剰基調であったため、米穀取引所での自由流通を基本としつつ、「米穀統制法」にもとづき政府による米の買入・売渡によって、米価を下支えする政策がとられていた。しかし、戦時期になると需給逼迫が生じ、むしろ価格高騰を抑えるような流通統制政策がとられるようになってくる。
 米穀流通における戦時統制のはじまりは、一九三九年(昭和一四)四月「米穀配給統制法」による日本米穀株式会社の設置や、米穀取扱業を許可制として米穀配給統制上必要な命令を発し得るようにしたことである。同年の需給量は均衡される予定であったが、朝鮮と西日本での旱魃によって流通が不円滑になって、投機的な米穀売買が多く行われ米価が高騰した。そのため、翌四〇年には八月「臨時米穀配給規則」、九月「米穀対策要綱」、一〇月「米穀管理規則」があいついで出され、自由流通を制限するあらたな法制度が確立した。臨時米穀配給規則では、農会統制のもとで米穀の集荷は原則として産業組合を通じて行い、県内消費分は米穀商を通じて消費者へ、競売分は全販連などを通じて政府または日本米穀株式会社へ販売することによって、流通の単純化をはかろうとしたものである。これより前、福井県においては同年五月二五日に「福井県米穀集荷配給統制要綱」を発している(「昭和一六年七月 道府県臨時米穀配給統制規則施行細則」)。同要綱は、図33に示したような流通機構を指定するものであり、臨時米穀配給規則と同様に流通の単純化をめざしたものであった。
図33 福井県の米穀配給統制機構図

図33 福井県の米穀配給統制機構図
        注) 「道府県臨時米穀配給統制施行細則」(協同組合図書資料センター所蔵文書)による。

 「道府県臨時米穀配給統制規則施行細則」、臨時米穀配給規則によって県内の流通は一元的に管理されることとなったが、その共精共販組織(福井県の場合米穀小売商業組合)は各府県によって機能や形態に相違がみられた(協同組合図書資料センター所蔵文書)。また、米穀の流通管理は、上記のようにいくつかの法令によっていた。そこで、米穀の流通に関する法令を一本化することが求められ、四二年二月に「食糧管理法」が成立した。本法によって、日本米穀株式会社など米麦の流通を担っていた全国諸組織は解散して中央食糧営団に統合され、県においても福井県米穀卸売商業組合や福井県米穀小売商業組合連合会などは解散して福井県食糧営団が出資金八〇万円(うち四〇万円は中央食糧営団が出資)で設立され、共精共販を実施していた米穀小売商業組合は営団の配給所となり、国家による一元的な流通管理体制が確立した。
 四〇年の米穀対策要綱は、自家保有米以外の大部分を管理米として政府が買入れし、計画的に消費者に配給割当を行うものであった。本要綱を具体化した四〇年の米穀管理規則は、大人一人一日あたり四合の自家保有米をこえる部分について政府が管理することを定めたが、福井県においても同年一一月二三日に「福井県米穀管理規則施行細則」(県令第八四号)を発している。同細則は、市町村農会が九月末までに管理米として出荷すべき数量の割当を行って生産者または地主に通知し、市町村長・産業組合長・部落組合長・農産物検査員・その他米穀関係職員などで構成する米穀出荷促進協議会を設置して、その協力のもとで供出を実施するように定めている。以後、戦時食糧危機の進展にともなって供出は強化されていき、四二年には自家保有米割愛の要請が行われて供出確保運動が実施され、四三年には集落責任供出制が実施された。集落責任供出制のもとで、供出量は「決戦遂行上最低所要量ニシテ従来ノ如キ実収高ヨリ保有米ヲ差引キタルモノニ之無」ものとなり、市町村―集落を通じて個別農家に供出量が割り当てられ、「荀クモ不用意ノ言動ニ依リ供出ヲ沮喪セシムル」ことがないように指導された(資12上 一七六)。その結果、福井県の供出割当に対する供出量は、前年度に比して収穫高が減少したにもかかわらず、表56に示したように一〇〇%を上回った。

表56 米の推定実収高と供出高(1941〜44年)

表56 米の推定実収高と供出高(1941〜44年)



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