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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    一 農業統制と農業団体
      地主的土地所有の弱体化
 一九四〇年(昭和一五)に県が農林省に提出した報告書によると、三三年から三九年の反あたり小作料は約一・一石から一・二石であった。この小作料水準は、総収益から農業経営費(自家労賃は普通の労働賃金で評価)を差し引いた「適正小作料」よりも約一割ほど高いものであり、小作農にとっては自家労賃の正当な評価を保証しないものである(資12上 一七三)。このような高率小作料は生産力増強のインセンティブを減少させて農村を不安定にするものとしてとらえられるようになり、地主的土地所有に一定の制限を加える諸政策が実施された。
 まず、政府による米穀の流通統制が、実質的に小作料率を低下させた点についてみておこう。三九年一一月に四三円にアップされた米価は、四一年八月には買入価格を四四円にアップし、生産者奨励金として五円を加算した。つまり、売渡価格四三円、生産者価格四九円、地主価格四四円となった。また、諸米価や生産奨励金の改定、生産費補償金の導入により、四三年には売渡価格四六円、生産者価格は六二円五〇銭、地主価格は四七円となり、四五年には売渡価格四七円、生産者価格九二円五〇銭、地主価格五五円となった。生産者価格と売渡価格の乖離による二重米価制は、消費者には低い価格で主食を提供して戦時インフレを防止し、生産者には生産力増強のインセンティヴを増大させる効果をもたせようとするものであった。また、地主価格と生産者価格の乖離によって、現物納での小作料率が五割で不変であるとしても、実質的小作料率を四一年時点で四五%、四三年時点で三八%に低下させた(暉峻衆三『日本農業史』)。また、三九年一二月の「小作料統制令」によって、同年九月一八日時点の小作料水準を維持することが定められ、小作料値上げが禁止されている。
 二六年からはじまった自作農創設維持事業は、福井県においては二六年から三八年には年間約六〇町歩前後の自作地を創設してきたが、戦時期になると三九年から四一年の自作農創設面積は三〇町歩前後に落ち込んでいた。政府は、四三年四月に自作農創設維持事業の整備拡充要綱を発し、国全体で既墾農地一五〇万町歩、開発農地約五〇万町歩を目標として自作農創設を行おうとした。福井県においても「皇国農村ノ建設確立ヲ図ル上ニ於テ其ノ中核トナル自作農家」を育成するために、四三年七月に「福井県自作農創設事業ノ拡充計画要綱」(経第三八一六号)を定めた。本要綱は、四三年から六七年の二五年間に既存小作地の五割を自作地化するとともに、農地の開発も行おうとするものであった。計画では、四三年から四七年は毎年三、四か村を自作農創設認定村として一〇八町歩の自創事業を実施することとしたが、実際には四三年が三一町歩、四四年が八二町歩を自作地化したにとどまった(『福井新聞』44・5・21、『大正昭和福井県史』上)。
 このほか、三八年の「農地調整法」によって任意とはいえ農地委員会を設置することが定められ、農地の移動などに関して一定の制限が加えられるなど、地主的土地所有はしだいに弱体化していったが、本格的な解体は戦後の農地改革までもちこされた。



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