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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    一 農業統制と農業団体
      農家小組合
 以上のような配給統制、共同作業、計画生産、および後述する供出の実行母体となったのが、集落単位の農家小組合である。農家小組合はもともと修養・親睦・農事改良を目的として明治末期から結成され、一九二一年(大正一〇)に八五組合であったが、補助金・奨励金の交付によって普及・発達が促され大正末期以降急増し、三二年(昭和七)には一二七三組合となっていた。
 三八年一一月の「自治体ノ細胞的組織結成ニ関スル件」によって「国民精神総動員運動上等時局下ニ於テ最モ緊要施設」として、末端行政補助機関として内務省系列の五人組制度と部落常会の結成が指導された。これに対して、県農会は五人組制度が生産、経済および生活改善など農家小組合の事業と抵触するおそれを感じ、農家組合の整備・再編に着手しはじめた(資12上 一一五、一一八)。
 三九年二月には「事変下ニ於ケル農家組合指導要項」が県農会によって発表された。本要綱は、「従来ヨリ少イ労力ト資材トヲ以テ従来ヨリ以上ノ生産ヲ確保シツ、併セテ社会経済事情ノ激動ニ処シテ其ノ生活を安定セネバナラナイ……個人的ナ力ノミデハ不充分ナノデアツテ、ソコニ部落農家ノ共同ノ力ガ絶体ニ必要トナリ」と述べて、戦時期の労働力不足に対応した集落単位の組織をつくる必要を強調する。当時の市町村においては、金融・流通の組織として産業組合が、生産・生活一般の組織として農会があったが、農家小組合はこれら機関の末端下部組織として機能し、「国策(中心ハ農業生産力ノ拡充)ヘノ順応ト農村生活ノ安定ヲ根本目標トシテ必ス計画ヲ樹立ノ上之ヲ積極的ニ実施スルコト」が求められた。そのために、集落の全戸を構成員とし、既存の各種団体も統合した「農村唯一の総合的実行機関」として再編されることとなった。また、農家小組合の事業を集落内に周知徹底するために、毎月総会を開催し、組合員の戸主は必ず出席することとなっていた(資12上 一六三)。
 この農家小組合を強化する運動の結果、四〇年には県下で一七〇〇の農家小組合を数え、農村協同体制を推進するのに実質的には不便を感じない状況になっていた。しかし、うち農事実行組合として法人化されているものは一四三にすぎなかったため、同年一一月から農事実行組合整備運動を展開し、四一年二月末までに全農家小組合を法人化することとなった。このようにして全集落に全戸加入を旨として結成された農家小組合は、生産・流通に関する機能的な面だけではなく地縁・血縁によって村内農民を支配する、末端行政組織となっていった。
 農家小組合の普及・拡大を支えたのが、三九年八月の「重要農林水産物増産奨励規程」などの各種事業に対する奨励金・助成金・補助金の受け皿として農家小組合が位置づけられたことであった。たとえば丹生郡大虫村下太田農事実行組合では、その収入のほとんどを奨励金や助成金が占め、支出も食糧増産対策にかかわるものであった(資12上 一六九)。
 戦争の拡大・長期化にともなって実施された各種の統制は、農業分野においては生産・流通・金融などの分野別、畜産・養蚕などの部門別の団体によって実施されていた。このような諸団体による統制では、統一的合理的な統制が困難であり、農業団体の統合が課題となってきた。四一年四月には農業の総合的運営・発達を目的として、帝国農会、産業組合中央会、全国販売購買組合連合会、産業組合中央金庫などの中央七団体によって、中央農業協力会が結成されたが、その後、四三年三月には農業団体の統合を目的とする「農業団体法」が成立した。この法律の結果、中央においては帝国農会、産業組合中央会などが解散して中央農業会および全国農業経済会に再編され、地方では農会、産業組合などが解散して市町村および道府県農業会に再編された。県農業会についてみれば、四三年一一月三〇日に県信用販売購買組合連合会、県農会、県養蚕組合連合会、県畜産組合連合会、県茶業組合、郡農会、郡養蚕組合、郡畜産組合が解散して、県農業会が結成された。以降、戦後に農業会が解散されるまで、生産・金融・流通などに関する諸統制事業は、県農業会や市町村農業会を通じて実行された。



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