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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
     六 県民の従軍と満州移民
      日中戦争への従軍
 敗戦時、福井県在籍の外地従軍者は四万八九〇〇名、内地部隊在隊者は二万九〇〇〇名であった(『大正昭和福井県史』下)。『福井県英勲録』によれば、日中戦争以降福井県人の戦死者は二万八〇三六名に達しており、これは外地従軍者のじつに五七%を占めている。ここでは『福井県英勲録』にもとづき、「郷土部隊」の足跡を中心に、福井県人の地域別戦死状況を記した(図31)。
図31 福井県の戦死者(1931〜45年)

図31 福井県の戦死者(1931〜45年)

 一九二五年(大正一四)の管区改正により、第一六師団(京都)に属していた歩兵第一八旅団(敦賀)が第九師団(金沢)の管轄下に入り、歩兵第一九連隊(敦賀)とそれまで歩兵第六旅団(金沢)に属していた歩兵第三六連隊(鯖江)をその指揮下においた。当時、徴兵・召集事務は連隊区司令官の管掌であり、嶺北の一市七郡は鯖江連隊区、嶺南四郡は敦賀連隊区に属しており、福井県の応召者のほとんどがこの両連隊に入隊した。
 第一八旅団の両連隊は、三二年二月から五月の間第一次上海事変に出動、三五年六月には満州警備のため渡満、三七年五月帰還した。同年七月、日中戦争がはじまると、九月には満州警備から帰還したばかりの第九師団も動員された。このため両連隊は上海に出動して南京攻略戦に参加、その後、徐州会戦、漢口作戦に参戦して、三九年六月復員した。この間、両連隊の戦死傷者は四〇〇〇名をこえ、第九師団の福井県人戦病死者は第三六連隊二〇〇二名、第一九連隊三四二名、その他の部隊一八二名に達した。
 三七年八月、現役の第九師団よりさきに特設第一〇九師団(戦時特設師団は、原則として固有の部隊番号に一〇〇を加えて表わされた)が動員され、九月下旬北京付近に到着、以後、山東省、山西省での警備・戦闘に投入された。四〇年一月の復員までに、この師団の福井県人の死傷者は三九七名(うち第一一九連隊四八名、第一三六連隊三一〇名)に達した。
 日中戦争開始後の三八年四月に増設され、中国戦線に投入された師団のうち第一五、二一師団は、補充担任区域がそれぞれ金沢、京都であったため、福井県人が多く、とくに第二一師団の歩兵第八三連隊と同六二連隊は、四一年一二月までにそれぞれ一一一名、四三名の福井県人戦病死者をだしている。
 このほかに、日中戦争(四一年一二月まで)での福井県人の戦病死者は六八六名を数え、独立歩兵第七五大隊、同七六大隊などに戦死者が多く、海軍部隊でも上海陸戦隊など四二名が戦死した。



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