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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
     六 県民の従軍と満州移民
      太平洋戦争への従軍
 ノモンハン事件の後、在満兵力の増強がはかられ、第九師団など内地に衛戍地をもつ一三個師団が満州常駐とされ、その留守部隊をもってあらたに第五一から第五七師団が編成された。この師団の新編にともない、従来の師管区が変更され、北海道以外では一府県を一連隊区とし、連隊区司令部が府県庁所在地に移されることになった。一九四〇年(昭和一五)九月、福井県は金沢師管区から京都師管区に編入され、以後、福井県はおもに第一六、第一一六および第五三師団(第一六師団の満州移駐後編成)の動員・補充を担任することになった。また三二年五月鯖江から福井に移駐した福井連隊区司令部は四二年三月敦賀連隊区の司令部の廃止にともない、同年四月から福井県下全域を管轄することになった。なお、戦争後期には、戦地で編成される部隊も多くなり、実際には、福井県は独立大隊など二〇〇をこえる部隊の補充を担当した。
 第九師団の満州移駐と師管区の変更により、これまで福井県人の多くが入隊した第九師団の第一九連隊と第三六連隊、および第九師団の満州移駐後に編成された第一一九連隊と第一三六連隊のうち第一三六連隊には、その後福井県人が補充されなくなった。しかし、これらの部隊には幹部として福井県人がなお在隊しており、その足跡をたどると、第一九連隊と第三六連隊は四四年七月満州から沖縄守備に転じ、第三六連隊は南大東島の守備に、また第一九連隊は沖縄本島からさらに台湾守備に転じたため、ともにアメリカ軍と戦闘を交えることなく敗戦をむかえた。一方、第一三六連隊は四三年に岐阜に移駐して第三師団(名古屋)に属し、四四年五月には第四三師団の指揮下サイパン島の守備につき、同年七月全滅した。
 第一六師団は歩兵第九連隊(京都)、同二〇連隊(福知山)、同三三連隊(津)の三個連隊を基幹とし、四一年一二月、フィリピン戦に参加、四三年一〇月以降、レイテ島の守備にあたった。しかし四四年一〇月、アメリカ軍の進攻により全滅した。フィリピンでの福井県人戦死者は六四八〇余名にのぼり、なかでもレイテ島を中心に第一六師団の戦死者は約二四〇〇名でうち歩兵第九連隊が一四〇〇名を占めている。フィリピンではこのほか、ルソン島(二六六〇名)、ミンダナオ・ホロ島(六二二名)などでも大量の福井県人犠牲者をだしており、部隊では中迫撃砲第四大隊、第一〇〇師団内の独立歩兵部隊、ホロ島守備の独立歩兵第三六五大隊でとくに多くの犠牲者をだした。また海軍も陸上戦(七六四名)、海戦(二七〇名)、空中戦(四八名)で多くの戦死者をだしている。
 第一一六師団は京都で編成され、中国戦線に投入された。四三年五月、歩兵三個連隊を基幹とする師団に改編され、歩兵第一〇九連隊(京都)、同一二〇連隊(福知山)にとくに多くの福井県出身者が在隊した。湖南省を転戦し、師団で一五〇〇余名(一二〇連隊九八〇余名)の福井県人戦死者をだした。
 このほか四一年一二月以降敗戦まで、中国大陸での福井県人戦死者は三二二三名を数え、第一一六師団以外では、第三四師団歩兵第二一八連隊、第一〇四師団歩兵第一三七連隊、独立歩兵第二二三大隊、同第五八大隊、独立混成第一旅団などで多くの戦死者をだした。
 第一五師団は前述のように補充担任地が金沢で、とくに歩兵第六七連隊には多くの福井県出身者が在隊していた。この師団は、南京付近の警備についた後南方へ派遣され、仏領インドシナあるいはタイに進駐し、四三年一二月にはビルマに前進し、インパール作戦に参加した。また、四〇年一〇月、第一九連隊の満州移駐をうけて敦賀で編成された歩兵第一一九連隊は、四一年一〇月、第五三師団新設でこの指揮下に入り、四四年四月以降ビルマ戦線に投入された。ビルマ戦線においてこの両師団が事実上壊滅したため、福井県人戦死者は約四四〇〇名に達した。このうち第一五師団は約一六三〇名(うち歩兵第六七連隊一二三八名)、第五三師団は約二三八〇名(うち歩兵第一一九連隊一九二〇名)を占めている。このほかでは仏領インドシナ在駐でビルマ戦線の補充を担当した第二一師団にも福井県人戦死者が多かった。
 四三年五月独立混成第四旅団から改編された第六二師団は、京都を補充担任区としており多くの福井県人が在隊していたが、四四年八月中国戦線から沖縄戦に転用され、第一二大隊(一三七名)、第一五大隊(一五六名)などで多くの福井県人戦死者をだした。沖縄戦での福井県人戦死者は一一八二名に達しており、この師団以外では、独立工兵第六六大隊(九〇名)、独立機関銃第四大隊(六七名)などに犠牲者が多く、また、海軍一六五名のうちには空中特攻約四〇名も含まれている。
 ニューギニア方面の戦闘では、本島西端に近いビアク島で八一七名の県人戦死者をだしたが、飛行場守備隊などが全滅したため、第二軍貨物廠(七〇〇名)、建築勤務第五一中隊(三三七名)、同五二中隊(二三五名)、独立工兵第八大隊(一九四名)などの部隊で戦死者が多かった。また、マリアナ諸島での県人戦死者は、海戦での空母大鳳などの海軍戦死者を加えると七八〇名に達する。
 なお、このほかには、外地戦場から護送されてなくなった戦傷病者、および近海での輸送船沈没による戦死者があり、その数は一三〇〇名をこえている。



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