絶対的な労働力不足を補うために、一九三九年(昭和一四)七月、「朝鮮人労務者内地移住(入)ニ関スル件」が出され、政府は労務動員計画にもとづいて朝鮮人・中国人を鉱山や土木建築業に従事させる方針をとった。三九年では「募集」という表現が用いられたが、八万五〇〇〇人の割当人員の駆り出しのために各企業代表が朝鮮七道に出張し、四二年からは「官斡旋」と呼ばれた朝鮮総督府によるより強力な動員政策が導入された(朴慶植「朝鮮人強制連行」『日本通史』19)。
福井県の朝鮮人数は、表54にみるように人絹織物業の隆盛から三六年の二四四〇人をピークに繊維工業の従事者が有職者の四割から五割と高く、三六年では県内の織物職工数四万九三二九人の四・三%にあたっていた。このため福井県の朝鮮人数は、富山・石川県と比較してももっとも多く、人口比でみればさらに高い値となっていた(内藤正中『日本海地域の在日朝鮮人』)。政策的な朝鮮人の動員が開始された三九年からその人口は急速にふえ、とくに鉱業で二〇〇人から四〇〇人、土木建築業では六〇〇人から一三〇〇人も増加していた。四三年末で募集によって移入した朝鮮人数は一五〇人、あっせんによって八〇四人が移入していたが、逃走などによってそれぞれ四六人、五四〇人に減少していた(『在日朝鮮人関係資料集成』5)。 |