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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    五 戦争と県民生活
      労務動員体制
 戦線への兵士の供給と軍需工場への労働力の供給を最優先として、同時に食糧や生活物資の生産の維持や国民精神総動員などの諸運動への動員を行うことは、労働力不足が深刻化するなかで、ほとんど矛盾する問題であった。これを遂行するためにさまざまな労務動員体制がとられることになる。
 当初申告を義務づけられた専門的技能者に限られていた労務動員の対象は、一九三九年(昭和一四)七月の「国民徴用令」とそのあいつぐ改正によって、一般労働者まで拡大されていった。徴用された者の処遇は、徴兵に準ずるとされたが、徴用令書は召集令状の「赤紙」に対して「白紙」と呼ばれ、その労働条件の悪さから病気によって徴用解除となることも少なくなかった。
 軍事機密とされたため県下の徴用の実態を知りうる資料はきわめて少ないが、四一年一〇月から翌年一〇月までに徴用を解除されたもの二九名は、いずれも舞鶴海軍工廠、大阪陸軍造兵廠、豊川海軍工廠などの軍施設に徴用されており、うち六割にあたる一八名が疾病を理由に、八名が陸海軍への召集のために徴用解除となっていた(資12上 一九三)。また大野郡平泉寺村の四〇年二月から四四年三月までの「応徴者名簿」では、記載者二八名のうち一六名が舞鶴海軍工廠(一一名)など軍施設へ、また四一年以降一〇名が三菱重工名古屋発動機製作所や住友金属名古屋軽合金製作所などの県外の軍需工場へ徴用されており、現役召集による解除は八名、疾病や視力低下による解除は四名であった(旧平泉寺村役場文書)。
 徴用が常勤の動員であるのに対して、勤労奉仕は臨時の動員ともいうべきものであり、勤労報国隊はその動員組織であった。その対象は、成人男子労働者の絶対的な不足から、生徒・学生や女子に拡大されていった。
 まず、三八年六月の文部省の長期休業中における学生・生徒の勤労奉仕(三日から五日)を義務づけた通牒をうけて、七月には県下の男女中等学校、青年学校、小学校高学年の児童・生徒によって郡市別に学校集団勤労奉公団が組織された。四〇年三月には知事を長とする中等学校・青年学校生徒、青年団、国防・愛国婦人会による農業報国勤労挺身隊が結成され、未利用地への飼料作物の栽植、未開墾地の開墾を行う計画が報じられた。こうした食糧増産運動には生徒は正課として参加するとされ、その期間も四一年二月には年間三〇日をあてるとされた(『福井新聞』38・6・15、7・25、40・3・25)。
写真34 農業報国勤労挺身隊

写真34 農業報国勤労挺身隊

 さらに対米英開戦直前の四一年一一月には「国民勤労報国協力令」が制定され、一四歳以上四〇歳未満の男子と一四歳以上二五歳未満の未婚女子に年間三〇日間の勤労動員が義務づけられた。これに先立って県内中等学校に設立されていた学校報国団は、国民勤労報国隊に協力するものとされ、各中学校では芦原飛行場の整地作業や国際航空工業などの工場での飛行機部品製作、高等女学校では飛行機部品や落下傘生地製作などの勤労動員が行われ、福井農林学校、坂井農学校、今立農学校、遠敷農林学校、福井師範学校などでは北海道や満州への勤労奉仕に参加した(『福井県教育百年史』2、4、『福井新聞』39・9・1)。
 四三年九月には国内の労務動員体制の強化が閣議決定されたのをうけて、、福井県でも新規中等学校卒業者、一四歳以上の未婚者、在学していない者、企業整備による転職可能者を対象に女子挺身隊を結成することになり、女子青年団や中等学校の新規卒業者を中心に女子挺身隊が組織された(『福井新聞』43・12・18、44・2・24)。



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