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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    五 戦争と県民生活
      宗教弾圧と反戦的言動
 一九三五年(昭和一〇)の国体明徴運動によって天皇機関説が否定されたころから、国家政策に非協力的とされた宗教の弾圧が開始された。
 翌三六年三月、「妖教」として大本教が結社禁止と主要建物の破却を命じられると、福井県でも丹生郡吉野村や南条郡武生町の十数名の信者に対して県特高課員が、脱会を強制するとともに礼拝所を破壊し神棚などを没収した。また、大本教と密接な関係にあった嶺南地方の昭和神鶴会員約一〇〇名も脱会を強要された(『大阪朝日新聞』36・3・15、4・14)。
 ひとのみち教団にも、教祖の不敬事件による三六年九月の逮捕を契機に、翌三七年四月には結社禁止と支部教会所の閉鎖命令が出された。同教団は、福井、敦賀、小浜に支部を、武生、三国には福井支部出張所をもち、県下に約三〇〇〇名の信者をもっていた。また信者のなかには約三〇〇名の教員、約四〇名の県職員がおり、その弾圧は大本教と比べれば、はるかに大きな動揺を県下にあたえた(『大阪朝日新聞』36・9・30、37・4・30)。
 このほか、北陸三県に約一〇〇〇名の信者を有する宗教類似団体であった南条郡の妙見堂は、「邪教」として解散を強制された。また、こうした宗教弾圧は、新興宗教のみでなく既成宗教にもおよび、財産問題で信者ともめていた坂井郡の大安寺住職に対して、知事より本山妙心寺管長あてに、住職厳重処分を要望する通牒が出された(『大阪朝日新聞』36・10・8、14)。
 こうして、社会運動だけでなく宗教運動にも弾圧が加えられ、また言論・出版もその検閲がきびしくなると、国民は政府の方針を無条件で支持することしか許されなくなった。しかし、多くの国民が聖戦を信じ、戦争遂行に協力することになるなか、ビラや投書、落書きなどにより戦争反対の意見も表出されていた。
 三八年には今立郡の浄土真宗正光寺の服部猶震住職は、信者に対して「出征兵出発の時は万歳々々の声に送られて元気で行くが、彼地で戦死する時は、天皇陛下万歳等を唱へて死ぬ者はなく、全部泣き乍ら母の名や妻の名を呼んで死ぬ」と説教していた。その話を聞きつけた当局は彼を陸軍刑法第九九条違反で逮捕送局した。また、四二年四月には今立郡国高村村国岡本猛名義で福井連隊区司令部あてに、「聯隊区司令部ノ野郎共に告ぐ、何んだ召集々々と兵隊ばかり引ぱりさらして、日本が負けた処で親方がかわるだけだ」「日本良い国何が良い国だ東洋の敵は日本だ」という内容の「不穏文書」が郵送されていた。翌四三年九月には足羽郡の一五歳の青年学校生が「大本営発表、東条さんは右足一本しかない」という落書きを電柱にし、厳戒をうけた(『特高月報』)。
 こうした投書、落書きは、戦局が悪化するにしたがい増加傾向を示し、また県民の「ホンネ」は、多くの場合流言蜚語となり、当局の神経をさかなでることにもなった。県民のなかに潜んでいた厭戦気分は、「タテマエ」と「ホンネ」を使い分け、応召兵を送る県民の多くは、非公式の場でしか、必ず生きて帰ってくるようにという「ホンネ」を語ることができなかったのである。四五年夏の敗戦まで、公式の場では戦争反対や厭戦気分は決して口にすることはできず、一億総突撃を唱えざるをえなかったのであるが、政府関係者がもっとも恐れたのもまた、こうして抑圧した国民(県民)の「ホンネ」であった。



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