目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    五 戦争と県民生活
      対米英開戦の日
 一九四一年(昭和一六)一二月八日は、東京で第二回の大政翼賛会中央協力会議が予定されており、福井県からも県支部常務委員の田保仁左衛門と新田聞岳が上京していた。すでに、同年七月の日本軍の南部仏印進駐以来、日米交渉による平和的解決は絶望的となっており、県民も対米戦争の不可避を感じざるをえないような状況であった。一一月一七日に開かれた県町村長会は対米交渉に関し政府鞭撻宣言を可決し、同月二六日に開かれた臨時県会も東条英機首相へ激励電報を打っていた。また、臨時議会での大増税案とたばこの値上げ発表にも、『大阪朝日新聞』(41・11・2)は「よし来た、ご奉公だ、頼もしい県民の心構へ」などと開戦への露払い的記事を載せていた。アメリカの要求する中国大陸からの全面的撤兵など、日中全面戦争により約四〇〇〇名の戦死者をだしていた県民には夢想だにもできなかったのである。
 対米英開戦の二週間前に開催された臨時地方長官会議に出席した久保田外字知事は、帰県四日後に開催された市町村長会議で有事即応総動員体制構築の急務を述べていた。そして、一一月三〇日の『大阪朝日新聞』が「やって来た決戦体制下の師走」と報じた日米開戦の危機は、ついに一二月八日に現実のものとなった。開戦の翌九日の同紙は、対米英開戦を「徹底的に戦はう!おゝ力強し県民の共鳴」という見出しのもとに「決戦の秋は来た、日米交渉の成行に視聴を集めて日一日と息詰まるやうな緊張を加へてゐた七十万県民は、八日早朝家々のスピーカーから流れ出る歴史的な臨時ニュースに万感こめて喊声をあげて一斉に起上つた」と報じた。また、上京中の新田聞岳の談話はつぎのようなものであった。
  実に愉快だ、世界のどこの国がいまゝで米国相手に堂々と宣戦を布告したか、しかもイ
  ギリス国までひつくるめて膺懲の火蓋を切つたのだ、日本精神をもりこんだ隣組精神を
  本当に生かすのはこの時だ、卵がない、肉がないといふ声もこれで絶滅するぞ、五年
  でも、十年でも茶づけで大根かぢつて頑張らう
 そして、新田とともに上京中の田保は、大政翼賛会県支部主催の県民大会を一三日に開催するようにと久保田知事に打電した。県民の多くは開戦とその大勝の報によって「息詰まるやうな緊張」からの解放感にひたされていた。
写真29 対米英開戦の新聞報道

写真29 対米英開戦の新聞報道

 おりから開会中であった通常県会が可決した七〇万県民の名のもとの「聖戦目的貫徹」の宣言文や、また知事によるつぎのような告諭も、県民にはあまりにも当然のこととされたのである。
  本日米英両国ニ対シ畏クモ宣戦ノ詔書渙発アラセラル、洵ニ恐懼感激ノ至ニ堪ヘズ、
  惟フニ支那事変勃発以来茲ニ四年有半、我ガ国ハ只管東亜ノ安定ヲ確保シ、延イテ世
  界ノ和平、人類ノ福祉ニ貢献セントスル帝国不動ノ国是ニ邁進シ来レリ、然ルニ此ノ間
  米英両国ハ東亜ヲ永久ニ隷属的地位ニ置カントスル頑冥ナル態度ヲ改メザルノミナラ
  ズ、百方支那事変ノ収結ヲ妨害シ、敵性国家群ト通謀シテ我ガ国ニ対スル経済断交ノ
  挙ニ出デ、或ハ興国ヲ誘引シテ帝国ノ四辺ニ武力ヲ増強シ、帝国ノ存立ニ重大ナル脅
  威ヲ加フルニ至レリ帝国政府ハ飽迄太平洋ノ平和ヲ維持シ、以テ全世界人類ニ戦禍ノ
  波及ヲ防止センコトヲ顧念シ、隠忍自重八ケ月ノ久シキニ亘リ米国トノ間ニ外交交渉ヲ
  重ネ、帝国ノ生存ト権威トノ許ス限リ互譲ノ精神ノ下ニ事態ノ平和的解決ニ努メ、尽ス
  ベキヲ尽シ為スベキヲ為シタリ、然ルニ米国ハ徒ラニ架空ノ原則ヲ弄シテ、東亜ノ明々
  白々タル現実ヲ認メズ、其ノ物的勢力ヲ悖ミテ帝国ノ真ノ国力ヲ悟ラズ、興国ト共ニ武
  力ノ脅威ヲ増大シ帝国ヲ屈従シ得ベシトナスニ至レリ、斯テ平和的手段ニヨル太平洋ノ
  平和ヲ維持セントスル希望ト方途トハ全ク失ハレ、東亜ノ安定ト帝国ノ存立トハ正ニ危
  殆ニ瀕セリ、事茲ニ至ル、遂ニ米英両国ニ対シ宣戦ノ大詔ハ渙発セラレタリ
 しかし、こうした自国のかかげる正義のみを絶対化する日本の主張と行動は、大きな破局をもたらすことになり、福井県においても兵士だけで日中戦争期の約七倍にあたる二万四〇〇〇名以上の戦死者がでた。これに満州移民をはじめとする海外在留者、空襲による被害者を含めるとその正確な死者数は今もって示すことができない。また、生き残った人びとにも有形無形の多大の惨禍をもたらしたのである。
 一二月一二日、閣議はこの戦争を「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と決定した。しかし、敗戦後はGHQによる太平洋戦争という呼称が国民に広くうけ入れられていくことになり、一二月八日以降の戦争の通称となっている。ただ、この呼称には同戦争が中国をはじめアジアの民衆にもっとも多大の災禍をあたえたという視点が抜けているとして、歴史学者などの間からはアジア・太平洋戦争と呼ぶべきであるという提唱がなされている。それは、満州事変以降の昭和戦前期の戦争を一五年戦争と呼ぶ考え方と同じであり、以下こうした視点を念頭におきながら、戦争と県民生活の諸相のいくつかについて述べよう(由井正臣『近代日本の軌跡』5)。



目次へ  前ページへ  次ページへ