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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    四 戦時下の学校
      戦時非常体制と学童疎開
 一九四三年(昭和一八)一〇月「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、教育内容の徹底的刷新と能率化、国防訓練の強化、勤労動員の積極かつ徹底的実施の三点が指示された。この非常措置によって国民学校義務教育八年制は無期延期されることとなった。福井県でもこの閣議決定をうけて翌四四年二月、内政部長から国民学校長にあてて「国民学校ニ関スル戦時非常措置ニ関スル件」が通達され、勤労の強化に関する措置と教科および教科外指導に関する措置の二点が指示された。後者の教科および教科外指導については男子と女子に分けて論じられ、いずれも精神訓練の徹底、国防訓練の強化、生産の増強、職業指導の徹底について述べられていた。
 また同年二月の知事の「国民学校長会議並ニ青年学校長会議長官訓示」のなかでは重大な時局に対処すべく以下の点を強調していた。つまり、教育内容の刷新と能率化をめざし児童生徒に至誠尽忠の念を啓培すること、教科全般にわたり軍事基礎訓練を強化すること、軍事生産と食糧確保をめざし生産増強を行うことの三点であった。同月には内政部長から中等学校長・青年学校長・国民学校長あてに「教育ニ関スル戦時非常措置方策ニ伴フ学徒ノ軍事教育強化要綱ニ関スル件」が通達され、ここでは徴兵適齢の一年引下げにともなって学校における軍事教育を一層強化し、国民学校より大学にいたるまで一貫した教練内容の整備拡充をはかるために陸軍省と文部省協議のうえ「軍事教育強化要綱」を決定したことを伝えている(武生東小学校文書、『福井県教育百年史』4)。
 四四年六月、政府は国民学校初等科児童の集団疎開を閣議決定し、東京・大阪・名古屋などの一三都市の縁故先疎開のできない国民学校初等科三年から六年までの児童を近郊農村や地方都市へ集団疎開させることにした。これにより八月に大阪府から一万五〇〇〇人の学童の受入れを要請された福井県は「学童集団疎開受入要綱」を定めて検討したが、四〜五〇〇〇人の受入れが適当と判断し大阪府に通知した。大阪府は児童数を最低四〇〇〇人に変更し、九月に第一陣として大阪市城東区内の国民学校児童二八〇三人が来福した(『福井空襲史』)。
 受入れ宿舎には寺院があてられ、日課をつくって児童に規則正しい生活をさせた。午前中は各受入れの学校へ通学させ、学校では疎開学童だけで学級をつくり、その授業には大阪からの付添い教員があたった。生活上で一番苦労したのは空腹であり、考えることは食べ物のことばかりというつらい生活であった。付添い教員の疎開体験記をみると、当時の学童疎開の実際がある程度推測される。疎開児童の日課は、朝五時半の起床にはじまり、朝会(本堂礼拝・健康報告・宮城遥拝・皇后陛下御歌奉唱など)、清掃、朝食、登校(疎開学級で四時限)、下校、昼食、自習、作業(洗濯・燃料運び・買物等)、入浴、夕食というもので夜一〇時消灯であった。寮での疎開生活がつらくなり寮を抜け出し大阪の親のもとに帰りたい一心で、無賃乗車で名古屋駅まで脱走した四年生もあったという。食べ物の不足以外にもノートや紙は非常に少なく、漢字の練習は地面に棒で書いたり、縁板や空中に指先で書いたりした。とくに困ったのは便所の落とし紙で、書いてしまったノートをちぎったり、配給で来る新聞を小さく切ったり、寺の障子を破ったりしたという。このような困窮生活に対して、地元からの暖かい援助についても書かれている。付近の民家から古新聞をもらったり、農家からの見舞品としていも・豆・大根・もち・つるし柿などをもらったりした。下駄屋の組合は古い下駄を集めて歯を入れ替えて寄贈したという(『福井空襲史』)。



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