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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    三 戦時下の衛生・社会行政
      内鮮融和団体
 また、一九三三年(昭和八)には秋の陸軍大演習をひかえて、福井県親和会とならんで、警察署の主導で県下の朝鮮人の統制組織も設立されていた。
 三三年六月、福井・武生警察署管内の朝鮮人を対象にしてそれぞれ「昭和協親会」「昭和永昌会」が発会した。前者は、会長に大月斉庵(福井市長)、副会長に松島格太郎(福井職業紹介所長)・申相烈、幹事長に岩居春治(福井警察署警部補)ら、顧問に熊谷三太郎・飛島文吉らを迎え、発会式には管内一〇〇〇人の朝鮮人が出席していた。同会では「内鮮人相互の融和を促進し、一視同仁の御趣旨にそひ奉らむ」ことが宣言された(『福井新聞』33・6・20)。武生の昭和永昌会も福井の組織と同様に土生彰武生町長、杉本清武生警察署長らを顧問にすえており、日本人と朝鮮人の融和をうたい、思想善導、生活の安定をめざした官製団体であった(『福井新聞』33・5・31、6・20、25)。翌三四年六月の第一回総会では、町村の土木事業への雇用を働きかけることや人事相談部の設置、衛生の督励、火事・盗難・不正行為防止のための警備隊の組織などの事業が決定された(『福井新聞』34・6・20)。
 こうした朝鮮人融和団体の設立は、直接には陸軍大演習をひかえた治安対策の側面が強かったと考えられ、三三年には、これら二団体のほかに「海東親睦会」「相保外字」「協和会」の三団体があいついで設立されていた(朴慶植『在日朝鮮人関係資料集成』3)。また、これらの団体の設立は県下在住の朝鮮人の増加やその労働運動の動向とも関連していたといえよう(第一章第一節五)。現実にこの昭和協親会の発会式のわずか三日後にも吉田郡西藤島村の国道一二号線改修工事に従業中の朝鮮人労働者が、内地人労働者との差別待遇改善を求めて同盟罷業に入っていた。ここでは同会副会長であった松島が調停の労をとり、争議の拡大をかろうじて抑えたようである(『福井新聞』33・7・1)。 
 こうした警察署が関与してつくられた団体は、三七年八月、「外地出身同朋を保護善導し、内地同朋の相愛の情誼を尽くさしめる」ため、「福井県協和会」に組織された。さらに三九年六月に中央協和会が設立されると、翌年夏には各警察署内に支部がおかれた(軍事保護院『昭和十五年度軍人援護事業概要』)。その活動は、当初みられた職業紹介などの経済救済事業から、しだいに納税組合・貯蓄組合の組織や国民精神総動員運動への参加など統制的側面を強めていった(『福井新聞』38・2・9、5・18)。さらに「半島婦人に呼びかけ風習を内地化さす、福井署の融和指導方針」にみられるように、女性を対象とした講演会・座談会などで生活習慣にいたるまでの「皇民化」が推奨され、日本式に名前をかえさせる「創氏改名」の趣旨徹底や朝鮮服廃止の申合せ、夜学会での「国語」指導、四三年八月の朝鮮人への徴兵制実施をひかえての補導員の拡充などが各地の協和会支部の活動として行われていた(『大阪朝日新聞』39・4・12、『福井新聞』40・4・6、12・15、42・5・9、6・4、43・1・9)。



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