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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    三 戦時下の衛生・社会行政
      融和事業
 昭和期に入ってからの福井県の被差別部落に対する地方改善事業は、予算総額で一五〇〇円から二〇〇〇円(うちほぼ半額が国庫負担)で奨学事業のほか、託児所運営や井戸掘鑿、道路改修、火防貯水池設置などの町村の事業に対して補助が行われた。その公費負担率はたとえば一九二八年(昭和三)では総額二七〇〇円の事業に対して一五〇〇円(五五・六%)であり、翌二九年では四九・二%であった。さらに三二年度から四か年継続で政府は恐慌下の被差別部落救済策として地方改善応急施設費を支出するようになり、福井県でも三二年度四〇〇〇円、三三年度五〇〇〇円、三四年度三〇〇〇円、三五年度一九〇〇円の国庫補助を得て、県の融和事業予算は三四年で一万三五〇七円とはじめて一万円をこえることになった。また三方郡では三三年度から五年計画で道路や下水道の新設・改修、住宅の移転改築を含む地区整理事業が総経費二万四〇〇〇円の予算で開始された(『融和事業年鑑』)。
 また、三三年には大正期末からの県内での水平社による差別糾弾運動に対抗するかたちで、県下の融和団体である「福井県親和会」が設立されている(通5 第四章第二節四)。県親和会は、融和運動の連絡統制機関である「中央融和事業協会」の地方組織に位置づき、その組織化は全国で三四番目と比較的遅かった。同会は、前年一〇月に大飯郡で部落経済更生協議会が開催されたさいに融和団体の組織を進めることとされ、翌三三年四月、学務部長を会長として設立されたものであった。同会は「汎ク同胞相愛の精神ヲ普及シ融和ノ促進ヲ図」ることを目的とするとされ、事務所を県社会課内におき、翌年までに六町村に支会が設置された。当初、支会の代表者は「有志」であったものが、三五年度から町村長となった(『融和事業年鑑』)。
 予算面とあわせて融和団体が組織され、ようやく本格的な融和行政施策がとられるかにみえたが、戦前期では三四年の融和事業予算を最高にその後の県予算がこれを上回ることはなかった。三五年六月、中央融和事業協会は「融和事業完成十箇年計画」を決定したが、内務省による予算的な裏付けが得られず、一〇年間で部落問題を解決するという精神面のみが強調されることになった。一〇か年計画の第一年度にあたる三六年には、県親和会の指導のもと四地区で産業組合や更生会(共同購入、販売あっせん、日雇労働者組合や納税組合を組織)、青年処女会労作部などの組織が設置され、「自覚更生」が強調された。さらに大政翼賛会の結成にともなって四一年六月には中央融和事業協会は同和奉公会に改組され、府県の融和団体もその府県本部へと改組されるにおよんで、被差別部落の人的物的資源の戦争への動員・統制組織となっていった。



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