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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    三 戦時下の衛生・社会行政
      軍事援護
 満州事変以降、傷病兵や扶助を必要とする家族が増加し、政府は一九三七年(昭和一二)にそれまでの「軍事救護法」(一八年施行)を改正し、七月一日、軍事扶助法を施行した。これによって、傷病兵の範囲が戦傷によるものから兵役中に感染した結核患者なども含まれるように拡張され、扶助をうける家族・遺族の範囲も同一戸籍内から同一世帯内に拡大された。また、同法の対象とならない者に対しても国の助成金にもとづき、援護団体による援護事業が行われた。同月七日、日中戦争が勃発し、戦死傷者が大幅に増加すると、政府は一五〇〇万円にのぼる軍事扶助予算を追加計上し、福井県内の軍事扶助の金額はそれまでの二万五〇〇〇円台から三七年ではいっきょに約七一万円、翌三八年には一六一万円と急速に膨張した(『内務省史』3、『帝国統計年鑑』)。
 遺族や家族の生活相談に応じる機関としては、政府は三八年から助成金を交付して軍事援護相談所の設置を奨励した。同年六月に福井県では、学務部社会課内に福井県中央軍事援護相談所、若狭出張所内に同出張所を設置し、市町村へも軍事援護相談所の設置を通牒した(県告示第二九八号、旧平泉寺村役場文書)。また各種の軍人援護団体を統一する機関として三八年一一月には、恩賜財団軍人援護会が設立され、県内にも翌月に支部が設けられた。さらに翌三九年二月には、この下部組織である銃後奉公会の設置が、既存の市町村軍事援護団体を統合するかたちで指示された。市町村の軍事援護相談所はこのさい、この銃後奉公会の事業とされた。同会は七月には県下一七二市町村中一七〇市町村に設置された(資12上 一四四、軍事保護院『昭和十五年度軍人援護事業概要』)。
 日中戦争開戦一年後までの軍事援護活動の一事例を、三八年の大野郡平泉寺村の報告「銃後状況」からみてみよう。総戸数三三一戸の同村の応召者数は九〇名、総戸数の三分の一にのぼり、うちすでに一五名が戦死していた。軍事扶助をうけている者は一七名であった。県の支那事変銃後後援会に協力するために設置した同支部(銃後奉公会の前身)の支出八二〇円のうち過半の四六五円は、応召者への餞別とされ、のこりは応召者と遺家族への慰問に使われていた。大半が農林業を営む遺家族への援護活動のうちもっとも重要な位置を占めたのは、農作業の奉仕であった。「男女青年団、婦人会ヲ単位トシ村民総動員ノ下ニ労力奉仕班」が取り組まれ、小学生による勤労奉仕を加えて、収穫(一家族平均八人)や起耕から田植(一家族平均一五人、馬七日間)などを行った。冬期の除雪作業(一家族平均四人)も報告されている。これ以外には、銃後後援会と婦人会などの共催による遺家族慰安会の開催、遺家族の写真や村報慰問特集号の応召者への送付などが行われていた(旧平泉寺村役場文書)。このように、一例ではあるが、官製の軍事援護団体として設置された銃後後援会の活動はわずかな餞別の配分と慰安活動を主とするものであり、根幹となる労力奉仕は、青年団・婦人会を中心とした村民総動員で「天候ノ順調ト村民ノ緊張トニ因ツテ」完了していたことがわかる。
写真27 丹生実科高女生の勤労奉仕

写真27 丹生実科高女生の勤労奉仕

 このように開戦当初においては、召集によって欠落した労働力を補完するだけの労力奉仕がかろうじて実施されていたが、その後の応召者の増加によって十全な実施は不可能になっていく。この後敗戦までの平泉寺村の応召者数は、実人員で四三七人にもおよび、これは四五年末の同村の世帯数四二八戸をこえる数であった。この過程で「軍事援護強化運動」がたびたび奨励されたが、四三年秋の収穫期には労働力不足が深刻化し、一方で「学徒町人ニマテ援助ヲ強要」しながら他方で慰霊祭、映画無料観覧、勅語奉読、訓話などの労力奉仕以外の援護事項を行うことは「効果ナキノミナラズ反テ矛盾ノ譏リヲ受クルノミ」と報告されるような状況であった(平泉寺村「昭和弐拾年度事務報告」、資12上 一五二)。



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