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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    三 戦時下の衛生・社会行政
      救護法の実施
 一九二九年(昭和四)四月に公布された「救護法」(三二年一月施行)は、「隣保相扶」の原則に立ち公的扶助の対象をきびしく限定したそれまでの「恤救規則」(一八七四年)に対して、六五歳以上の老衰者、一三歳以下の幼者、妊産婦、精神または身体に障害があり労務を行えない者が貧困によって生活できないときに、主として居住地の市町村長が救護するとされた。その費用については、道府県は市町村の負担の四分の一、国は二分の一以内を補助するとされ、はじめて公的扶助義務を認めるものであった。しかし、扶助の対象には年齢制限があり、被救護者の選挙権の欠格条項も適用されていた。
 また、救護法では市町村の救護事務を行うために名誉職の救護委員がおかれた。それまで福井県では、全国でももっとも遅い二八年七月に福井市、武生町、敦賀町に方面委員二九名が設置され、これが三〇年九月に福井市近郊七か村五六名に拡大されていた。そして救護法の施行を契機として三二年一二月に県下全市町村に救護委員を兼ねて設置された。方面委員は三三年で三九二名を数え、方面委員制度に法的な根拠をあたえた「方面委員令」施行(三六年)ののちの四〇年では、一七三市町村に対して町村単位に一と市にそれぞれ五ずつの一八一方面(ブロック)、六二五名がおかれていた(『福井県勢概要』三二年、『福井県社会事業要覧』四〇年)。
 救護法による県内の救護は、当初の三二年で実人員一二九二人、総額三万三〇九二円で、恤救規則による救護(三一年)に比して、実人員にして四倍強、金額にして八倍に増加した。しかし、救護の人員は三六年に一六五七人(総額四万五三六円)をピークに減少し、四〇年には一一九三人(同四万一九九〇円)となっていた。また、三六年八月には福井県方面委員連盟が結成され、さらに同年九月には、「仏教王国福井が全国に魁けての事業」として、寺院を「隣保親和ノ中心道場」とするために福井県仏教社会事業協会が結成された(資17 第634表、『福井県社会事業要覧』四〇年、『大阪朝日新聞』36・6・10)。さらに三八年四月には民間社会事業への助成と監督を制度化した「社会事業法」が公布(七月施行)された。このように寺院を含めた民間団体を動員する組織整備が行われる一方で、社会福祉一般への財政的な比重はしだいに低下し、かわって「軍事扶助法」(三七年)「戦時災害保護法」(四二年)がその中心的位置を占めるようになる。



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