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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    三 戦時下の衛生・社会行政
      結核と乳児死亡
 県下の死亡率(人口に対する比率)とりわけ結核死亡率は、隣県の石川県ほどに顕著ではなかったものの、福井県も同様に一九二二年(大正一一)から二六年(昭和元)の平均で全国三位と高位にあり、その後三五年までの一〇年間も二位から七位と上位を占めていた(福田真人『結核の文化史』、『福井県衛生統計要覧』三八年)。
 都市から農村部への結核の蔓延は、社会問題として注目を浴びてきており、内務省は一八年(大正七)から二七年(昭和二)にかけて農村保健衛生状態実地調査を開始した。福井県では翌年の今立郡粟田部村(内務省による直接調査)をはじめとして、足羽郡酒生村、吉田郡吉野村、坂井郡磯部村、大野郡猪野瀬村、丹生郡天津村、南条郡北杣山村、敦賀郡中郷村、三方郡耳村、遠敷郡野木村と全国でももっとも多い一〇か村に対して衛生調査を実施しており、これらの村の多くは結核死亡率がとくに高いことを理由に選定されていた。結核の感染経路について粟田部村の事例では、正確な認定はできないものの村内の機業場での感染が八割に達しているとされ、これ以外の地域では「機織工女及京阪地ニ出稼ギスル商業見習者ニヨリ本村ニ移植セルモノト推断」(吉野村)のように、機業従事者と都市への出稼ぎ者によって村内に持ち込まれたことを推測していた(『農村保健衛生状態実地調査報告』、内務省衛生局『農村保健衛生実地調査成績』)。
図29 福井県の乳児死亡率(1921〜38年)

図29 福井県の乳児死亡率(1921〜38年)

 このため、福井県では一六年(大正五)四月に設立されたまま、ほとんど活動していなかった福井県結核予防会を、二六年三月社団法人に改め、会員増による増資をはかった。さらに前年からはじまった四月二七日の「結核予防デー」には宣伝ビラやポスターの配付、自動車や自転車の宣伝隊による行進、花火大会などのにぎやかな催しが県内各地で行われた(「福井県結核予防会趣意書」、『福井新聞』26・3・7、4・28)。また、一歳未満の乳児の死亡率も昭和期に入って全国で二位から六位と高く(図29)、第一回「乳幼児愛護デー」の二七年(昭和二)五月五日には講演会、活動写真会などが催され、ポスター、パンフレットが配付された。二九年からはこれに福井高女同窓会主催の乳幼児の体格審査会が加わった(『福井新聞』29・4・18)。
 このように昭和期に入って結核予防や乳児保健についての啓蒙活動がすすめられたが、活動写真や自動車隊といった真新しい手法を用いて県民の関心を喚起したものの、多分に行事的、娯楽的であり実質的な生活改善をともなわなかったため、衛生状態の改善にはつながらなかった。
写真26 乳幼児愛護デーのポスター 

写真26 乳幼児愛護デーのポスター 



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