このため、一九三二年(昭和七)五月には「本県民の健康状態ハ之ヲ他府県ニ比シ著シク遜色アリ」として、「体育運動ノ振興ヲ計」ることを求めた告諭・訓令が発せられた。さらに同年九月には、困窮者や予防上とくに必要があると認定された者が医療費の割引をうけることができる「結核予防救護規程」、虚弱児童に栄養剤を配給する「虚弱児童擁護規程」が設けられた(県告諭第二号、県訓令第一六号、県告示第四四七、四四八号)。
この三二年の告諭・訓令では県民の死亡率の高い要因を、「気候風土ノ健康ニ適」さず「衛生思想稍低度ニ在ル」ことに求めており、その解決策も屋外での運動や換気と日光浴などを奨めるにすぎなかった。このためわずか三年後の三五年六月、ふたたび衛生に関する告諭が発せられることになる(県告諭第一号)。
この三五年の告諭の布達は、直接には近藤駿介知事が天皇から福井県民の保健衛生状態について問われたことに端を発しており、この「聖旨」に答えるためにようやく本格的な県の衛生施策がとられるようになった。すでに日本は柳条湖事件以降、中国東北部への権益を拡大しつつあり、「国ヲ挙ゲテ内外ノ難局ニ邁進スベキノ秋」に「亡国病」と呼ばれた結核の撲滅が緊急の課題となったのである。また疫学的な研究の進展によって、北陸地方の結核死亡率の高さは気候や風土に起因するのではなく、都市の工場への出稼ぎによって結核に罹患した者が結核未感染地の農村に帰郷し、爆発的な感染をもたらすことが明らかになりつつあった(古屋芳雄『民族生物学研究』6、福田真人『結核の文化史』)。
三六年五月、「健康福井」のスローガンのもとに設置された「福井県保健衛生対策委員会」の答申では、医療施設の拡充や住宅・栄養などの生活改善におよぶ広範な対策が示された。具体的には衛生思想の普及、健康診断の励行、健康相談所・消毒施設の普及・拡充、結核療養所の設置、住宅と栄養の改善、乳幼児保護施設(小児保健所、託児所)の設置、母性教育の実施、衛生指導員の設置などがその内容であった(旧北谷村役場文書)。 |