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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
     五 対岸貿易と「裏日本」
      対ソ連貿易から対満州貿易へ
 敦賀港外国貿易内の相手国としては、ソ連、中華民国、満州国が重要な位置を占めていた。ただし、中華民国の港は、ほとんどが満州国に編入されたために対中国貿易は皆無に等しい状況となった。そこで、ソ連、満州との貿易を表31にまとめた。輸出においては一九三六年(昭和一一)までソ連が圧倒的に多く(三四年をのぞく)、対満州輸出が首位になるのは三八年以降であった。輸入においては輸出ほど圧倒的ではないがやはり対ソ連貿易が対満州貿易を上回り、三八年にようやく逆転する。後述するように、北朝鮮経由満州国行の鉄道線が続々開通したにもかかわらず、日中戦争までは敦賀港の最大の貿易相手国はソ連であった。

表31 敦賀港の対ソ連・対満州貿易(1927〜39年)

表31 敦賀港の対ソ連・対満州貿易(1927〜39年)
 対ソ連輸出が伸びたのは、三五年の北満鉄道譲渡にともなう代償物資輸出が三五年から三八年三月まで行われ、電動機・発動機、内燃機関、絶縁電線、靴底皮などが輸出されたためである。しかし、北満鉄代償物資輸出が完了すると対ソ連輸出は激減したのである(『敦賀商工会議所統計年報』)。
 満州事変、満州国建国後に期待された対満州貿易(関東州、満州国仕向)はどのように推移したのだろうか。このころ朝鮮の沿海州との国境に近い羅津、清津、雄基港が拡張され、敦賀港からは清津との間に直通航路があった。南満州鉄道株式会社は、北部朝鮮三港を満州の玄関口と位置づけ、三三年一〇月より清津以北鉄道の経営を朝鮮総督府から譲りうけ、三六年六月からは清津・雄基両港の施設の貸付もうけ、一貫経営に乗りだした(日満工業新聞社『日本海経済』一九三九年)。三三年九月に新京(長春)・図們江間の京図線が営業を開始すると、新京・清津間の直通運転が行われ、北朝鮮ルートの日満貿易が活発となった。
 敦賀の経済界では、「日本海の湖水化」を相言葉に新潟港、伏木港と航路充実を競いあった。すでに、敦賀・ウラジオストク間の「ウラジオストク直航線」が逓信省の命令航路として北日本汽船株式会社により年間四六回以上運行されていた(逓信省管船局『昭和七年海事摘要』)。三三年からはこれに加え敦賀・清津間の「敦賀北鮮線」が命令航路として北日本汽船により毎月三回以上、年間三六回以上運行され、「ウラジオストク線」も本数は年間三六回に減ったものの清津に寄港するようになり、敦賀・北朝鮮間の航路は充実した(逓信省管船局『昭和八年海事摘要』)。また朝鮮総督府命令航路として朝鮮郵船株式会社により月二回の定期船が運行されていた(朝鮮総督府逓信局『朝鮮総督府逓信年報』)。
 敦賀港が伏木港、新潟港に比べ優位であったのは、中京・阪神工業地帯を背後に控えていたためであった。このことは敦賀商工会議所の諸建議に述べられているのみならず、名古屋市も対満州国輸出の運賃計算の結果、敦賀港から清津・京図線経由が従来の大阪港から大連港・満鉄経由、あるいは門司港から釜山港・朝鮮鉄道経由の場合に比べ、圧倒的に距離が短縮され、運賃、日数ともに短縮されることを指摘している(名古屋市産業部『特ニ敦賀至ル最短距離鉄道敷設ニ関スル研究』昭和七年産業調査資料第五号)。
写真20 敦賀港(堀田清治筆)

写真20 敦賀港(堀田清治筆)

 三二年三月に敦賀港第二期修築工事が竣工し、年間約七〇万トンの貨物の集散が可能となったが、満州国建国や京図線開通というあらたな状況が生じたため、さらに第三期修築工事を望む声がおこった。三三年五月の港湾協会通常総会において敦賀町長による第三期修築工事を求める建議が採択され(『敦賀商工会議所月報』33・6)、以後毎年の港湾協会総会において同様の建議がくり返された。しかし、敦賀港の日満貿易は当初期待されたほど発展せず、第三期港湾修築工事は、四三年六月にようやく起工されたのである。



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