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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
     五 対岸貿易と「裏日本」
      敦賀港の貨物集散
 第一次世界大戦期に敦賀港の外国貿易は激増し、ピーク時の一九一六年(大正五)に輸出価額は五四〇〇万円を記録した。しかし、対「ロシア領アジア」(ウラジオストクなど沿海州)輸出の激減によって二〇年以降減少を続け、二四年にはわずか二五万円にまで落ち込んだ。一方、輸入価額は、中華民国が最大の相手国であったために二〇年代には三〇〇万円から六〇〇万円の間で推移し、第一次世界大戦時の水準を維持した(資17 第461、462表)。
 また、対朝鮮貿易は、移出においては漁網・漁具の不振から二〇年代前半に落ち込んだものの、二〇年代後半には増加し、移入においては大豆、大豆粕、牛を安定的に移入していた(資17 第463、464表)。対内地移出入も二〇年代は堅調を維持し、全体として敦賀港における貨物集散は、活発に行われたとみてよいだろう。
 さて、一九二七年(昭和二)以降三九年までの敦賀港貨物集散(海路)を示した(図28)。
図28 敦賀港輸移出入貨物(1927〜39年)

図28 敦賀港輸移出入貨物(1927〜39年)

 まず、輸移出合計を価額ベースでみると、二九年から三二年、三七年に対前年比減を示したほか、ほぼ毎年増加傾向をたどり、二七年に比べ三九年には約四・八倍に達した。数量ベースでは二九年から三一年に連続減少したほかは増加し、二七年に対し三九年は約三・二倍となった。輸移出合計に占める構成比をみると、価額ベースではほぼ毎年外国貿易がもっとも大きく、ついで朝鮮貿易である。三三、三四年には朝鮮貿易が最大となっている。二〇年代に対ソ連貿易の衰退から大きく減少した外国貿易が、ふたたび重要な位置を占めるにいたったのである。
 ついで輸移入合計をみるとやはり恐慌期に減少するものの、全期間をとおして停滞的で三九年は二七年に対して価額ベースで約一・〇倍、数量ベースで一・一倍にすぎなかった。輸移入の構成をみると内地移入が一貫して最大で過半を占め、朝鮮貿易がこれにつぎ、外国貿易輸入の比重は小さかった。輸移出と輸移入のバランスは、二〇年代末には輸移入が輸移出の四、五倍であったものが、しだいにその差が縮小し、三〇年代後半にはほぼ均衡となっている。
 表30に陸路も含めた貨物集散を数量ベースで示した。三三年の海路のみでは輸移出高の約五・二倍の輸移入高があり、輸移入超過は二二万四〇〇〇トンにものぼる。ところが、内地移出の陸路が輸移入超過分を大きく上回り、陸海あわせた輸移入超過は、約二万トンにすぎない。これは、海路輸移入された貨物が陸路(鉄道)により内地各府県へ移出されたことを示している。また、海路の輸移出高は内地移入の陸路分にほぼ対応しているので、鉄道により内地各府県から入荷した貨物が海路輸移出されたことを示す。

表30 敦賀における貨物の集散量

表30 敦賀における貨物の集散量
 三七年もほぼ同様の構造だが、三三年に比べ輸移入合計は一・七倍化したが、これを上回って海路の輸移出高が約二倍となり、これと対応する陸路の移入高も約二・三倍化している。
 三〇年代なかばにおける主要品目の集散について輸移入品目からみておこう。石炭は、約五割が九州炭、約二割五分が北海道炭であり、福井県内と滋賀県湖東地方で消費された。魚肥は北海道・樺太から移入され、みかん産地静岡・和歌山をはじめ山陰、四国地方にまで移出された。大豆粕は福井県・滋賀県湖東地方、大豆は名古屋・諏訪方面にて消費された。朝鮮活牛は北陸・信越地方などに移出されているという。敦賀港の輸移入品のヒンターラントは福井県・滋賀県湖東地方を中心としながら、魚肥、活牛が広範囲に流通していた。輸移出では、福井県産品は藁工品が朝鮮へ、硅石が八幡製鉄所に移出される程度であり、ほとんどは県外品であった。福井県産の人絹織物もその多くが神戸・大阪・横浜港から輸移出された(港湾協会『敦賀港振興座談会』一九三六・三七年)。



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