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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    四 百貨店と中小商業者の動向
      福井市の小売商の営業状態
 一九三八年(昭和一三)八月、福井市の小売商の営業状況が調査された。それによると、百貨店の小売商に対する影響は、表28に示したように、まず三五年の数値からだるま屋の売上げが、福井市全体の小売の売上げのおよそ五%を占めていたこと、また三六年以降には福屋が加わり、両百貨店のその比率はおよそ倍の一〇%となっていたことがわかる。当時の小売の売上げに占める百貨店の比率は大都市の東京市で二五%、大阪市では一三・八%であったから、これらの数値と比較すると福井市のそれは比較的低い数値であったように思われる(鈴木安昭『昭和初期の小売商問題』)。しかし福屋が出現することで百貨店の売上げは倍増しているので、百貨店の小売商に対する影響はかなり大きかったものと推測される。

表28 百貨店の売上高(1935〜37年)

表28 百貨店の売上高(1935〜37年)
 この調査では福井市内の小売商の営業状況も調査された。足羽川をはさんで橋南と橋北とではいくつかの違いがみられる。表29に示したように、まず小売業に従事する戸数は全体で三三四三戸であるが、そのうち橋北は二五六五戸で、全体の七六・七%を占めていた。つまり橋北は戸数において全体の四分の三を占めており、小売の中心は橋北にあったことがうかがえる。またこの調査では小売業に従事する家族は「従業員」として分類され、それ以外の者は「使用人」として分類されている。これらの分類で家族以外の「使用人」を雇用する小売は、橋南で一八・六%、橋北で二九・三%であった。橋北ではしだいに家族以外の「使用人」に依存する傾向が強まっていたことが読み取れる。しかし全体として家族以外の「使用人」を雇用する小売商が少なかったことも無視できないであろう。つまり、福井市の小売商は全体として家族の「従業員」に依存する比率が高く、したがって経営規模は零細であったことが想像されるのである。そしてこの調査では「使用人」について、それが通勤であったか、住み込みであったかも調査されている。それによれば住み込みの比率は橋南で六八・四%、橋北で六八・七%を占めていた。多くのものが住み込みの形態で小売業に従事していたのである。

表29 小売商における従業員・使用人の概況(1938年8月)

表29 小売商における従業員・使用人の概況(1938年8月)



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