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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
     五 対岸貿易と「裏日本」
      日満ブロック化と「裏日本」
 さて、「日本海の湖水化」をスローガンにした敦賀など北陸諸港は、日満ブロック経済化の進展によりいかなる展開をとげたのであろうか。まず、一九三二年(昭和七)から三七年の内地各港の対満州国、関東州への輸出額をみると、大阪を筆頭に横浜、神戸、門司、若松、名古屋という順位であり、敦賀は三七年にようやく〇・七%を占めるにすぎない。ちなみに伏木、新潟はさらにこれを下回っていた。また、日本海側一七港は、三〇年代に一六%台から一一%台へと比重を低下させていたのである(大蔵省『日本外国貿易年表』)。
 一方、同期間の対満州輸入については敦賀は〇・七%から〇・四%の間であり、新潟、伏木はこれを上回っていたが、日本海側一七港は一六%から一九%の間で推移した(大蔵省『日本外国貿易年表』)。対満州貿易の大部分は、太平洋から瀬戸内にかけての工業化した諸港湾であり、日本海側諸港は一、二割の比重にすぎず、しかも輸出においてはその比重を低下させていた。
 外国貿易に外地・内地移出入を加えた総輸移出数量により全国の港湾を順位づけると、敦賀は、二五年から三〇年までは四〇位台であったが、三一年以降五〇位台に転落する(内務省『帝国港湾統計年報』)。
 北朝鮮経由の日満貿易が振るわなかったことは、三六年五月に行われた敦賀港振興座談会においても問題となったが、野村治一良北日本汽船株式会社社長は、日本海航路がほとんど赤字であり、「スペースは相当あるけれども是を消化するだけの荷物が動いてゐない」と指摘した。その原因として大連・阪神間の運賃との差がほとんどなく、品目によっては割引政策のために大連経由の方が安くなっていること、距離が短いだけでは貨物が動かないことを力説している(港湾協会『敦賀港振興座談会』一九三六・三七年)。その解決策は、後背地の工業化であった。
 太平洋戦争中に福岡市役所が主要港湾を視察した報告書のなかで、敦賀港は「当港は京阪、名古屋方面を重要背域とし北鮮及清津、羅津両港を通ずる東北満の仲継港としての使命を有するも地元に港湾を利用すべき重要産業なく、県市共に積極的熱意を欠くの憾あり」と評されていた(福岡市役所商工課『内地諸港実地調査報告書』一九四四年)。
 日満ブロック化による「日本海の湖水化」の進展は、工業化を背景とした太平洋側・瀬戸内諸港湾の発展をもたらす一方、敦賀をはじめ日本海側諸港の相対的地位を低下せしめ、これらの地域の「裏日本」化を促進したということができるだろう。



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