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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
     三 金融業の再編
      昭和恐慌と金融構造の再編
 一九二九年(昭和四)一〇月のニューヨーク株式市場の崩落にはじまる世界大恐慌の一環としての昭和恐慌は、物価の激しい下落をもって特徴づけられる(石井寛治『日本経済史』)。福井県経済を支える重要商品の羽二重価格は二九年一一月から暴落しはじめ、三〇年一〇月以降の米価と繭価の崩落が加わって機業界と農村の経済を直撃した。職工賃金の引下げや農村に滞留する失業者などの暗い報道があいつぎ、多くの県民の生活を惨憺たる状況に陥れた。金融恐慌以降中小弱小銀行では預金の引出しや不良貸付の回収困難がつづき、大恐慌がそれに追打ちをかけ、政府の合併強制をうけいれざるをえない状況に追い込まれた。預金ランク第三位の森田銀行が農業恐慌の余波をうけて三〇年一〇月に福井銀行と合併したことは、この間の事情を端的に物語るものであった(資11 二―一二六、一二七)。こうして戦時体制期の一県一行主義の核となる有力地方銀行の地位が確立し、金融構造再編の骨組みができあがった。

表26 県内普通銀行の預金と諸貸出金(1930年)

表26 県内普通銀行の預金と諸貸出金(1930年)
 ここで表26を手がかりに、県内金融構造の再編過程を検討してみよう。敦賀二十五銀行は二八年一二月に敦賀、二十五両行が対等合併して生残りをはかったが、二七年末に比べ預金シェアはかえって低下し、大恐慌で一段と経営状態が悪化した雲浜蚕糸会社への不良貸出しの回収難にあえいだ(『福井銀行八十年史』)。二九年末に三宅・悠久・熊川三行が合併した若州銀行と三方銀行は預金引出しにあって預金額を減らした。無資格銀行の洪盛銀行も同様の悩みをかかえ三二年二月に福井銀行に買収される。第五十七銀行は二七年末より預金が若干ふえているが、固定貸に苦しみ、四〇年に中越銀行(富山)に買収される。こうしたなかで福井銀行は預金、諸貸出金とも第一位となり、大和田銀行がこれについでいる。両行を合わせたシェアは預金で七六%、諸貸出金で六七%と、寡占状態を確立した。両行は一県一行主義の中核となり、最終的に福井銀行がその覇権をにぎるが、その経済的な基礎条件は大恐慌期にできあがったといえよう。しかし、資金量、支店数など営業基盤で第一位となった福井銀行も、大恐慌では羽二重価格の暴落から多くの破綻業者への固定貸に陥り、所有株式も株価の大暴落にあって二九年下期以降三期連続して任意準備金を取り崩してかろうじて配当を続けたことも留意しなければならない(『福井銀行八十年史』)。



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